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創作のリスクヘッジ。目が見えなくなっても、いいじゃない

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以前、絵描きの友達がこんな話をしていた。
「将来、目が見えなくなったら…そう考えてしまうと不安なんです。もしも絵が描けなくなってしまったら、って」
なるほど、絵を描く人なら通る道だよなあ、と思う。 

ふと、その言葉を思い出した私は「さて、私は目が見えなくなったら困るだろうか」と考えていた。
1年と6カ月、完結を目指して漫画を描き続けてきた私。
完結まで、あと8年と6か月ぐらいは掛かるだろうと踏んでいる。
それまでに、目が見えなくなったら。

「別に困らないなあ」私はそう結論付けた。

目が見えなくなっても創作に困らないために

一つの手段に依存してしまう創作は脆弱だ、と思っている。
絵でしか表現できない世界、というのは確かにあるのだと思う。
しかし、目が見えなくなったり手が取れてしまったりしたらおしまいだし、心のどこかにそれを恐れる気持ちがあると、クリエイションの質にデバフが掛かってしまう。
「目が見える」「両手がある」という前提はよっぽどのことがない限り崩れない強力なものだが、あまりにも当然のものとしすぎると、「万に1つの可能性」に潰されてしまうのだ。

なので私は「自分が心地よさを感じる部分に対して、他者に説明できるぐらいに言語化する」をやった。

たとえば、私は漫画を描く時「外界からの刺激に対するキャラクターのリアクション」を表現することに心地よさを感じている。

それを漫画にしているのは「絵と文字の双方で、映像的に表現できる」という点で、私がしたい表現をもっともコスパよく行えるからである。

一方で、私の創作は漫画のみならず、文章であっても成立する。
だから、たとえば右手が取れたらパソコンかスマホで小説を書けばいい。
もし両手が取れたり、目が見えなくなったりしても、喉が無事であれば自分の声を録音したボイスドラマで表現することもできる。

そのように、自分が何を表現することを心地よいと思っているかをハッキリさせれば、「最悪の状態」を想定した時に「こういう方法もあるよね」とリスクヘッジができる。

これが「特定の色の組み合わせが好きだから、自分の手で再現している」などになると確かに視覚ひとつに依存してしまうからどうしようもないが、その時ばかりは視力回復手術なりなんなりをやるしかないし、自己理解さえ進んでいればそれを選ぶことに納得もいくだろう。

自分の欲望を満たすための、より低コストな代替案を考え続ける

もう1つ、私がリスクヘッジとして採用しているのはこれだ。
たとえば、私は最初のうちはギアファンをデジタルで描いていた。
しかし、パソコンや液タブが壊れれば買い替えにかなりの費用が発生するし、定期的なメンテナンスが必要となる。
私はこれがどうしても嫌だったので、「ノートにボールペンで描く」ことで維持コストを下げる作戦に出た。
最初の頃はデジタルのような綺麗な作画にならないことにストレスを感じていたが、さすがに1年間やり続ければ多少は作画の腕が上がってくるし、「まあ、せっかくこれでやってきたんだもんなあ」と拙さにある程度の諦めもつく。
何より、維持コストや作画コストが下がったことで「同じペースで止まらずに走り続ける」ことがより簡単になった。
もちろん、ここまで極端にやる必要はないのだが、「今よりもっと低コストに自分の欲望を満たすやり方はないか?」と考え続けることは、リスクヘッジとしても継続手段としても大切なことだと思う。

「諦める」ことも大事なこと

何より、私は「物語を完結させること」を目指してはいるが、物語の完結は最悪実現できなくてもいいと諦めがついている。

私は今、完結することよりも「完結へ向かい続ける道中」を楽しんでいる。
目的地まで歩いていく道中で、道端に咲く花に目を留めたり、雲の浮かぶ青空を眺めたりして楽しむように。
その道の途中で死んだとしても、「死ぬまでの間、楽しく暇つぶしができた」から、私は別に悔しいとも思わない。

結局のところ、創作は死ぬまでの暇つぶしの手段の一つである。
だからこそ、大事なのは道中を楽しむことだと思う。
まあ、普通の人は「何の目的もなくただ散歩する」のは苦痛だと思うので、一応の目的地は設定しておいた方がいい。
どうせなら、到達しがいのある大きな目的地を設定しておけば、何年もの間楽しく暇つぶしができるだろう。

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