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夏の入り口にて

制服の、上から2番目のボタンが取れた。
心臓にいちばん近いところが開いたので、
なんだか泣きそうになった。
そこから心が流れ落ちてしまいそうで、
泣きそうになった。

平日の午後、緑が揺れる音と、鳥の鳴く声を聴きながら文字を連ね始めた。

体調が悪くて学校を欠席したのだけど、明日からテストという逃れようのない予定が頭から離れなくて無理やり制服を着て勉強しようとしていた。
でもどうにも頭が回らなかったのですね。
それで文章を書いている。

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私は考えることが辞められない。誰かが近くにいても、周りに誰もいなくても、落ち着くことなんてできない。私の、人間の情報源はもちろん外界なのだが、私は外界のものとして情報を処理するのではなく内界、自分の内面で処理して「"情報"化」する体質なのだと思う。

梅干しを見るだけではなく実際に触る、漬ける、食べる、酸っぱいと感じるところまでが「"情報"化」だと言えるかもしれない。

これはある日の午後の話、


友人「何も考えてなかったらめちゃくちゃ時間過ぎてたことってよくあるよね、あれやめたい」

という友人の言葉にすごくびっくりしたことがある。

私「……考えてない時間とかなくない?」

と思わず言ってしまった。

友「どういうこと?」

私「え、授業中とか勉強中はもちろん勉強の内容に集中するでしょ、それと同じように勉強の内容じゃなくて今日気になったこととか人生観とかご飯食べてるときもお風呂入ってるときも寝る直前まで考えてる、考え、ない…?」

友「え、それすごいね。私考えたことないよ、たぶん理解できない感覚だ〜」

あ、え、考えたことないのか。

……じゃあ逆にどうやって生きてるんだ??

と、友人が私を理解できなかったのと同等に、もしくはそれ以上にそのとき私は友人が理解できなかった。
そしてこれはどちらの想像力が欠如しているとかそういう話ではなく本当に私が異質なのだ。とそのとき直感で思った。
同じ学校に通う友人が生きづらそうではないのに私が生きづらい原因は「情報量の多さ」だとは前から薄々気づいていたからだ。

(ここから先の情報という単語は、ただ外界のものとしての情報ではなく梅干しを酸っぱいと感じる方の情報)

世界には情報が溢れている。
足の踏み場も無い程多く。

興味深い情報があちこちに散らばっていて、私はその中から硝子の破片みたいな、或いは葉脈の透き通るほど薄い白い花弁みたいな、そんな綺麗なものを見つけて拾って心に飾るのが好きなのだ。ただ、
綺麗なものを見るには、
汚れたものも見なくちゃいけない。

これはこの世の摂理だと思う。幼い頃に読んだパンドラの箱の物語に影響を受けているのかもしれない。

つまり私は綺麗なものを見るために無意識のうちに受け取る情報量を多くしているのだと思う。

わざと世界の解像度を上げて、情報量を意図的に増やして美しいものを探しているのだと思う。

情報をひとつの「物」として見ると、母数が大きいほど「綺麗だなセンサー」に引っかかる「物」も増える、とも言い換えられるかもしれない。

そして解像度を上げると視野は狭くなるので、私のTwitterのアイコンは何かしらの拡大画像なのだと思う…

雨で濡れた折りたたみ傘。
憂鬱な中の綺麗さ、愛。


算数でいうところの約分の逆の操作をしているな、と気づいた。私が数学が苦手な理由はここにあると思う。
数学は無駄を嫌う学問だ。具体的な事象はできる限り削ぎ落として、ほぼ最大限抽象的にして成り立つ学問。
逆に言えば抽象化しなければ成り立たない学問なのだ。

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a=b,b=cであるが、a=cではないもの(a≠c)を答えよ。という質問が企業の面接でされたというのを聞いたことがあるだろうか。ひとつの解答例としては、

「a=サンマ、b=魚、c=漢字。
サンマは魚である。
サンマは漢字ではない。」

というものらしい。なるほど、たしかに証明だと思った。でも数学ではa=cが成り立つものとして定義される。どうして成り立たないはずの式が成立するのか。
要するに、文字上の具体性のある事象ではなく、数学のように厳密な抽象性がないとこの式は成立しないということのようだった。


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…というふうに、数学は抽象の学問である。ということを少しは掴めただろうか。(難しくてごめんね)

でも私たちが生きている社会は抽象ではなくて。
そうすると厳密に抽象化した数学を必死にやる意味がわからなくなってしまうのだ。
もとから抽象化されたものに、私が求めたいものは見つからないかもしれない。そもそも見つかったとしてもそれは本当に自力でやった情報化と言えるのか、いや、言えないだろう。と思ってしまうのだ。


私は解像度を上げて具体的なものを求めて、その求めたものを自分の中で「綺麗なもの」という括りにコレクションして、また抽象化して飾ることが好きだから
そしてそれが人間関係を築くこと、なにかしらの物事を自分のものにすることに応用できるから
その作業が生きる術になるから
好きなんだろう。

桜。やっぱりかわいい。


そして生きる術を磨いて生きている、ということは


私はどうしようもないほど、

生きることに抗えない生きていたい人間


なのだと思う。
汚い部分の割合が多くて、綺麗なものを見つけるのに一苦労する世界のことなんて好きじゃない。そしてその感覚を共有できる人がほとんどいないなんて、たまったものではないよ。本当に。
でも毎日そんなことを考えるのにもう嫌だ、死んでやる、と口に出せないのは、きっと心が生きていたいと叫んでいるから。

そして死にたい人だって生きていたいけれどなにもかも限界でどうしようもなくて死にたいと言っているのだと勝手に思っている。苦しむ人たちのことを決めつけるのは傲慢かもしれないけど、でもそうだと思う。

・.。*・.。*

だからこそ私は綺麗な言葉を綴ることで、
或いは写真、音楽を提供することで、どうしようもなくくるしい人を助けたい。

めいっぱい解像度を上げて見つけたこの世界の嘘みたいな美しさは私だけのものではないから。

あなたも同じ世界の住人。
生きている限り。



愛しいあなたが生きているうちに、この心に蓄積した煌めきを渡したい。生きる意味が見出せない人、生きていたい人、どうかどうか、諦めずに生きていて。


そんなことを想って私は言葉を紡いでいる。

⟡.·*.

流れた心、どうにか文字に落とし込めただろうか。
少し小難しい話になってしまったかもしれない。
でもこれが、紛れもない私の日常。

夏の入り口に書いたはじめてのnote。またいつか書くと思います。それでは。

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