当て書き練習①「Butter」小袋成彬

彼女と別れて、「ハマってる音楽をめっちゃ推す」機会がなくなったのが大変寂しい今日この頃。
いっそ書くことにしました。
創作の練習を兼ねて、勝手に文章つけてます。
本文投げても曲は聴いて。
めっちゃ良いから。
※追記※
なんらかのサブスク入ってないとフル聴けないっぽい。
ごめん。


達するとき、彼女は上になる。
最初の夜からそれは変わらない。
トーストに溶けるバターのように滑らかな身体は、最後には溶けてなくなってしまう。ひとつになる、というのでもない。香りだけを残して、染み込んで、消える。暖かみを感じる頃には冷えて固まって、汗の一滴も残さずに、俺の身体から居なくなる。そうして俺はいつも、「また会えないか」という言葉を呑み込んで眠るのだ。

それでも、リビングのドアを開ければ彼女は居る。
ひとたび服を着た彼女の輪郭は完璧で、触れ難い。
彼女は立ち上がり「おはよう」と、殺風景な部屋の中心に置かれたテーブルに僕を促した。チェアはひとつだ。

この部屋に初めて来た日から1ヶ月も経っていない。
それなのに部屋のテーブルが、器が、壁に掛かった写真が、空気が、ひとつひとつがまるで昔から自分のものであったように馴染む感覚を覚える。

彼女は立ったままコップに水を注ぎ、水差しからひと口、直接飲んだ。
「コップは使わないのか」
「ひとつしかないもの」
そう言って、水の注がれたコップを僕の前に差し出す。
「プレゼントするよ」
「いらない。人が選んだものを置きたくないの」
一緒に選びに行こう、と彼女は言わせない。
冷たくはないが媚びてもいない、彼女の振舞いが心地良かった。

小ぶりな正方形のテーブルに置かれた、クロワッサンが甘く薫る。
「さっき買ってきたの。今のお気に入り」
いつもの事だが驚かされる。
彼女が部屋を出たことすら気付かず、俺は眠っていた。
ここしばらく、うまく眠れない。だが、彼女と寝た朝は夢も観ずに済んだ。それがこの部屋に通う理由でもある。

俺がクロワッサンをかじる間、彼女は外を眺めていた。
カーテンのないリビング。
細い身体に朝陽が当たり、なにもない床に影を落とす。
黒いショートヘアは光を受けて輝き、厚塗りした油絵具のような肉感さえあった。
今年で34になるという。とても、妻と同い年には見えなかった。


俺が家に帰ると、君はハグで出迎えた。
君が家を出るときは、俺はキスで見送った。
いつ決めたわけでもない、結婚前からの習慣だ。
日々を過ごし、年を取っても、そうしていれば変わらないでいられる気がしていた。
時折気になる君の口臭が実は自分のものではないかと思うようになっても、俺達が変わることはないはずだった。

「今日の検診も順調でした」
チンジャオロースをつまみながら君は言う。
「良かった。ごめんね、こんな時期に忙しくて」
「大丈夫。でも、早めにカタ付けてね」
君は意地悪く笑って見せた。大丈夫、と軽く言えるほど逞しくないのは知っている。

君も30代半ばになり、半ば焦った形での子作りだった。
会社から独立し、フリーランスとして軌道に乗った。
我武者羅に働いた時期を乗り越え、ようやく家庭というものと向き合えるようになった頃だ。
しかし同時に、忙しさに任せて目を背けてきた不安に押し潰されそうになった。
急な呼び出しで帰りが遅くなることも未だにある。
今までなら、急場の対応こそ好機だと意気込んだものだった。しかし妊婦を家に残して、となれば話は別だ。
正直な所、気の休まる暇はなかった。

そういうときに限って、君はセックスをねだった。大きくなった腹を気遣いながら、丁寧に愛する。
ゆっくりとした身体のうねりにこのまま呑まれてしまいたいと思った。君の胸に、腹に、頬を押し当て、いっその事、君の身体になれればと。


俺が彼女の部屋に行くのは、決まって金曜日の23時だ。
夕食を共にする事もない。彼女は外での食事を好まなかった。
家でひとりで食事を済ませ、街に出て、酒だけを飲む。
そうして酒場で出会った俺に、彼女が持つ7日のうちの1日が今は割り当てられている。

都心のマンションの一室。電気を点けなくても、ビル街の明かりで部屋は照らされていた。
部屋に行くと、決まって彼女は俺をテーブルに着かせ、一杯の酒と一品の肴を供する。
今夜は、バーボンとローストビーフ。
目新しいものを出す事はないが、洗練されていた。
なるべく時間をかけて頂く間、彼女は決まって壁にもたれ、煙草を吸う。
彼女と食卓を挟んで向かい合う光景を、想った事がないわけではない。
口には出さなかった。

彼女から口を開いた。
「来月、この部屋を引き払うの」
口の中のバーボンを飲み下す。喉の痺れが不快だった。
「アムスに行くわ。しばらく帰らない」
どうして、いつまで、と尋ねたところで不毛だと薄々判っている。
「寂しくなるな」
「やめてよ。人に惜しまれるのは嫌い」
卓上の灰皿で煙草を揉み消し、グラスに残ったバーボンを飲み干した。
「私の為に行くの。応援して」
爪の鈍い赤が、初めて彼女に流れる血を想起させた。

彼女は刹那的で、退廃的にも見えた。
自分の為に多くのものを捨ててきたのだと、暮らし振りから看て取れた。
その潔さは自分には無くて、妬ましく、恨めしい。
帰る場所が無いのは、俺も同じなはずなのに。


美味そうに食べる君と、食卓を囲むのが好きだった。
たまに甘い物でも買って帰れば、大袈裟なまでに喜んだ。
すっかり丸くなった顎回りさえ愛しかった。

彼女の部屋を出た足で、駅前の洋菓子店に立ち寄った。
君の好きなタルトを2つ。
日は高くなり、雲ひとつない晴天。
君が消えた日と同じ空だった。
あの日からもうすぐ1年なのに、あの交差点を避けて遠回りしてしまう。

玄関で君が迎えてくれればと、また考えては唇を噛む。
もう少しだと思ったのに。
どこかでまた会えたら、同じように愛してくれるのだろうか。

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