北野武監督『首』の3つの暴力

先日、北野武監督の映画『首』を観にいきました。
映画『首』公式サイト (kadokawa.co.jp)
一部ネタバレがあるので、気になる方は映画を見終えたあとに読んでいただけると嬉しいです。

北野武監督の映画は好きで、全作品の9割くらいは観てます。
特に好きなのは『ソナチネ』『Dolls』あたりで、この2作品は10回以上観てるかも。

今回観た『首』も今までの北野映画に通ずるものを感じたので書いてみようと思います。

それは3つ暴力です。順番に書いていきます。

単純な暴力

1つ目は単純な、純粋な暴力です。殴ったり、刺したり、殺したり。
人を殺すシーンが多々ある映画でも、たいていの映画は、わき役として死んでいくことを全うしているように見えます。銃で撃たれてもただ美しく倒れ、画面は次に切り替わっていきます。物語を進めるうえで必要だから死んでいくのです。

北野映画でも人は次々死んでいきます。でもそこでは、グロテスクなまでに、観る人に痛みを感じさせながら傷つき、死んでいきます。また、その暴力や死は、その登場人物の今までの人生とも、物語の進行とも無関係に、突然に生まれます。

『首』の舞台が戦国時代なので、今までの北野映画ほどの理不尽さは感じないものの、他の人が作った映画と比べると、やはり理不尽かつ直接的な暴力を感じます。

感性への暴力

2つ目は感性への暴力です。隣の芝生への思いをぶち壊すもの、と言い換えてもいいかもしれません。
歴史好きな人たちが好きな時代は戦国時代や明治維新の頃が多いという印象をもっています。今回の作品ででてくる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は日本の誰もが知っている歴史上の人物で、大河ドラマの主人公であったり、彼らから学ぶビジネス書、みたいなものも出ています。
功罪はあるものの、彼らは比較的ポジティブに捉えられているのではないでしょうか。
本作では違います。信長は狂い続けているし、秀吉は2枚舌3枚舌を弄しているし、家康は自分の影武者たちが自分のために何人死のうが何の感慨もあるように見えない。観客は彼らに共感できないのです。
もちろん3人だけでなく黒田官兵衛や茂助、出てくる人みな、我々の感性からすると「全員悪人」なんですね。
私たちが何となく感じてる淡い彼らへの憧憬は全て否定されていくようです。

従来のものと比べた時の違和感は文化的な背景もあります。
戦国時代、男色が一般的だったことはある程度知られていますが、他のドラマでそこが取り上げられていることを私は見たことがありません。おそらく今までのイメージを壊したくないのでしょう。

「首」では当たり前のように出てきます。荒木村重と明智光秀と織田信長が三角関係であったり、信長と森蘭丸、荒木と明智の絡みのシーンが描かれています。このシーンには美しさはなく、観る側はただそ今まで自分が描いていた戦国時代の武将たちとの異質さを見せつけられているようでした。
(もちろんこれは男性同性愛を異質とみている、ということでなく、男性同性愛を見なかったことにしてしていたことへの異質さ、という意味です)

これらは、戦国時代が異質であったことを伝えたいのではなく、観る側が勝手に抱いていた時代や人、何かに対する願望を、勝手な妄想なのだと伝えるために戦国時代という舞台装置を準備したのでは考えています。
今までの北野映画は、その舞台装置がヤクザだったと思っています。

物語構造への暴力

『首』は題名のごとく、首をめぐる話です。最初は荒木村重の首、続いて信長の首、そして明智光秀の首。首はいわばトロフィーで、みなが誰かの首に執着しています。また、メインテーマが首であるなら、サブテーマは農民茂助の成り上がりの話であると観客は暗に伝えられます。登場人物がほぼ歴史上の人物のなか、無名の茂助の存在がかえって目立っているからです。

しかし、上記のような物語を想定して観ていると、物語としてこの映画を捉えてきたことが無効であるとわかります。茂助は明智光秀の首を手にして、侍になるという夢を叶えられると思った直後にあっけなく殺される。信長の跡継ぎになるべく探していたはずの光秀の首を、秀吉はこんなものいらないとこともなげに蹴り飛ばす。
茂助の感慨のない死と首が蹴飛ばされる最後のシーンで、物語というものに従って今まで観てきた自分たちそのもの、もっというと自分が今追っている人生のトロフィーが、光秀の首のように蹴飛ばされていると感じる人もいたかもしれません。

3つ暴力は誰に向かうのか

秀吉がカメラに向かって首を蹴りだす最後のシーンで、複層的にに絡み合った暴力は、映画のなかの人物でなく観客に向けられたものだと気づかされます。映画をいわば神の視点から見ていた最後、観客は暴力の蔓延る地上へと蹴落とされるです。

ただこれは、より正確にいうならば、暴力の蔓延る世界に降ろされたのではなく、暴力の蔓延る世界にいたのだと気づかされているのです。

映画を見終えて

首をこちらに蹴られて映画が終わった直後、残ったのは整理されないもやもやとした気持ちでした。劇場を出て、家に向かうなかで、私は少しずつ自分に向けられた暴力に気づいたのです。あるいは暴力とは須らくそういった類のものなのかもしれません。

もう少し『首』のこと、自分にとっての首のことを考えたり、『ソナチネ』もう一回観たいなあと思いました。
『首』お勧めの映画です。

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