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鏡の中の吟遊詩人

突然の雨に成す術もなく、街路樹に身を寄せた。

潜り込んだ木の下はとても静かだった。もしかしたら、音までをも遮断しているのじゃないかしら?

見上げると、大きく張った逞しい枝に満点の星を思わせる程の葉が繁り、その一枚一枚は、水の感触を味わっているように見えた。

聖堂の様な木陰から、雨粒の音を歌う野鳥の声がする。

歌声に釣られ見上げた先では雀の一群がとても美しい声で、長く旋律を奏でていた。繁殖期の雄の囀りが変わる事は知っていたけれど、それ以外の時期に、こんな風に雀が鳴くのをこの時知った。私は雀の群れの一員になった気分で雨宿りを楽しんだ。

暫くすると、木陰の下をひんやりとした風が通り過ぎた。

そうか…。夏の終わりはいつも騒がしく、秋は静かに訪れるけれど、雀たちはその予兆をいち早く察知したようだ。

私もたった今、それに気づいた所だった。この時を、雀の一群と過ごせた事は何という幸運なのだろう。

足元から、何かの力が源泉の様に湧き上がって来るのを感じながら、樹木の聖堂を後にした。


雨に濡れてしまったためか、体が少し火照っている。風邪かもしれない。家に帰り着くと、普段より熱いシャワーを浴びた。

強く蛇口をひねる。

滝のように浴びたシャワーはあの聖堂の感覚を流すどころかこちらがその気にさえなれば、浴室をも聖域となる事を示していた。

バスタオルで髪を拭いながら鏡の中の自分を見た。

自分を見たのだった。しかしそこに映された姿は…

誰?

いつの時代の人?

祖父に似ている様な気もする。でも違う。私はこの老人に、祖父を重ねているだけだった。「あなたは?」

はっきりと、誰?とは聞けない自分がいる。

「… バードだ。」

鳥の?化身?

その人は言った。「聞きたい事があるのじゃろう」

「知りたい事ではなくて、ですか?」

「忘れている事、とも言える。」

熱が逃げている。体の芯からまさに、熱と一緒に力が逃げていた。身構える力、思い出そうとする力、鏡の中の人物が、善人なのか悪人なのかを見極めようとする力。抗う事も出来たはず。しかしそうはしなかった。意図してその中へ入って行く事にしたのだった。

その中と言っても鏡の中へ入るわけでなく、何処か遠い、此処ではない場所へ行くのでもない。場所は変わらず時代を遡るのでもなかった。

一千光年先の星の姿をここから今見ている様に、鏡から届く声は木霊の様なものかもしれない。途切れる事なく宇宙を振るわせここに到達した波なのかもしれなかった。


「わしは詩詠いじゃ。昔話をしに来たのではない。舞台となる場所に辿り着いた。それだけじゃ。

いいかね?準備は。」


そう言われ、私は敢えてゆっくりと、バスタオルを頭に巻き付け棚に置いていたパジャマを羽織った。もう一度鏡を見た時もしかしたら、消えているかもしれない。

深く、息を吐いて視線を戻すとやはりそこにはあの人がいた。詠う意志は消えてはいない様だ。

老人の瞳の色が淡く褪せた。もうその瞳は、私の姿を捉えてはいない。彼の脳裏に浮かぶ景色がそのまま詩となりその詩は、音ではなく、初めは香りとして蘇るのだった。


きついお香を誰かが焚いている。これは…ベチバーか…。

それだけではなかった。動物の…、獣の匂いもする。甘く熟した果実、何かを発酵させた様な匂い、むせ返る、人の匂い。

ぼんやりと、徐々に聞こえ始めた、聞いた事も無い言語。何を話しているのかさえ分からない。私はその中で、誰かを探していた。道が手招きをしている。

そこしか進む道など無いと言わんばかりの一筋の通りを抜ける。

狭い通りを走り抜け、人にぶつかりながらも走り続けた。ここにいる。ここにいたかもしれない。石で出来た階段を2段飛ばしで駆け上がる。飛ぶ様に駆け上がった。

登りきった場所から、向かいに丘が見えている。太陽の光芒が真っ直ぐにそこを差していた。

その丘に建つのは宮殿か、神殿か…。分からない。分からないがその建物の様子が3Dで浮かび上がって来るのだった。

映写機はカタカタと音をたて年代を感じさせた。今から私は映画を観るのだ。とても古い時代の、けれどもそれは立体的な映像…。まるで新旧の合作だ。

それとは知らず背もたれにしていた石碑の文字は解読不能で考古学者も悩ます風化具合だ。指で文字を追いながらまじまじと見つめていると、一つだけ、見覚えのある絵が見えた。

柘榴だった。ルビー色に輝く柘榴。この石碑に残された人物はおそらくは、女性なのではなかろうか…。

アルテミスの蜜蜂の様に、柘榴をシンボルとする誰か。誰だっけか?その姿が浮かびそうになった時、映画は前触れ無しで始まってしまった。

パツン、と切り替わり、映写機からの映像は私の脳裏に直接絵を送り始めるのだった。


まず見えたのは、ここは中庭だろうか…?

暑く照りつける太陽が、地面に貼られた煉瓦を焦がしている。

そこへ次から次、巨大な箱や綺羅びやかな包みが運び込まれていく。正装と思しき衣服を纏った男たちが各々で持参した荷物の横に並び始めた。

「異国からの使者かしら?」
思わず溢した私の声は、映像の中で、誰にも気づかれない程の微風となってそこに現れた。

本当に、誰一人として微風を感じる者はいなかった。

それよりも、貢物が従者の手により慣れた仕草で次々と開封されて行く様は、これが在り来りで特別な風景ではない事を物語っていた。

ある者は香り高い香木を、またある者は柔らかな絹織物を、はたまた海や山の産物を、

そして珍しい動物や植物たちを… 

誇らしげに差し出している。



私は地獄を見ているのだろうか?

これを延々見せられるのならもう結構だ。このストーリーに救いがあるようには到底思えなかった。


もういい。

帰ろう。

その時だった。


「退屈極まりない。」

ほとほとうんざり、といった口調で女性の声が唐突に響いた。

その声の主を探してみたが、見つからない。見えているのは広げられた貢物と異国からの使者たち、それから…近衛兵。

みんな、赤の他人。

諦めと、僅かな希望がこの人の均衡を保っているのだろう。


やがて偽りの宴も終わり、一人、また一人と去ってゆく。最後の一人を見送った後、兵士に追い払われている影があった。

「もう終わりだ。」

きつく放たれた言葉の先に、頭ひとつ抜き出た大柄の男が立っていた。

その男は、一国の代表とは思えない身なりをしていた。

着古したローブを擦り切れそうな紐で縛っている。手には真鍮製の鳥籠が一つ、握られている。

今度はこの男の眼から見た世界が映された。

男の正面には玉座に座る、年齢は50代くらいの女性がいた。

長い髪は結い上げられダチョウの羽でその表情は隠されている。しかし薄っすらと透け感じられたその人は、明らかにこの男に興味を示していた。

見ず知らずの誰かから小さな親切を施された日の様な、そんな、理由もなく信じる気持ちが湧き上がる時に似た、底しれぬ安堵が広がっていた。

彼女の心から重い雲が、そこよりも更に高い天空へと吸い上げられているようだった。

「あの者をこちらへ」

聞き取れない程の小さな声で、玉座の人は言った。

呼ばれた男はその大きな体とは裏腹に、物音一つたてずに歩み寄っている。湖畔の波の様だった。

「これを…貴女に」

差し出された鳥籠を側近が恭しく差し出すとそこには何という事のない、一羽の小鳥が入っていた。

小鳥は玉座の人の前で囀り始めた。始まりは楽しげにコロコロと鳴いた。


次には何かを警戒し、羽をバタつかせ甲高い声で…


そして最後は

悲しげに細く、

鳴いた。


「あれは… 

あの小鳥は吟遊詩人だ…」


私がそれを確信したと同時にその人は、玉座を離れ叫んだ。


「天にあるものは天に返し
水にあるものは水に返し
地にあるものは地に放て!

囲われたものたちを解き放て!」


目の前を砂嵐が通り抜けた。腕で目を庇い砂嵐が去るのを待った。

腕の力を抜くと、鏡の中に私がいた。だらりと下がった手のひらに、ザラザラとした砂の感触が残っていた。






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