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10月8日(火)1日目: 霊山寺、極楽寺、金泉寺、大日寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺、切幡寺

※旅しながらの執筆なので現時点では「メモ書き」的な内容になります。Wi-Fi環境や電源環境整い次第、写真なども貼り付けアップデートしていきます。サポート、記事の購入は文字通りお遍路の多大なサポートになります。ぜひオンラインお接待をお願いします!

夜中の二時に目が覚める。眠れなかったとか興奮してたとかではなく、逆。超熟睡。その時間に「満充電」になったのでパチリと目が自然に開いたという感じ。調子いいな。

外の気配に耳を澄ませる。どうやら雨も止んだようだ。今日の天気をネットで調べてみたのだが、午後五時くらいまではなんとか持ちそう。昨日は一日出発を遅らせようと思っていたが、考えてみれば電気は昨日で解約してるので、今朝の九時にはここの電気も使えなくなる。ネット回線もない。一日ここにとどまっていても、iPhoneのバッテリーを消耗するだけで充電すらできない。それなら多少天候が悪くても、先に進んだほうがいい。やっぱり今日、出発することにする。

驚かれるかもしれないが今回のお遍路、一切ほとんど何も旅程を調べていないし計画もしていない。その日その日、朝のうちにどうするかを決めて行動しようと思っている。そりゃ一日二日の旅行なら計画もありかもしれないがざっくり二十日はかかりそうな旅で事前に計画とかさすがに無理だと思うのと、元来の「めんどくさがり」「行き当たりばったり」な性格のためだ。

というわけで、今からここで今日の旅の計画を練る。カロリーメイトをつまみながら。

まず、鳴門市にある一番札所[霊山寺]までの距離を調べてみたのだが(そこからかい)、距離にして15㎞ほど。時間にして1時間程度とのこと。札所の納経時間は7時〜17時までなので、6時頃に出発すればちょうどいい時間に到着できそう。


霊山寺から次の札所の極楽寺まではなんと自転車6分程度。コンビニかよな距離感である。


この調子でどんどん札所の位置を調べていけばいいのかもしれないが、二番の段階でだるくなってきてしまった。結局、「行けるところまで行って早めに休む」、それしかないという結論になった。行動、大事。

出発しようと建物を出たら何かがポロリと地面に落ちた。何かと思って見てみると「寸志」と書かれた封筒が。裏面には「お元気で」とある。名前はどこにも書かれていない。中には3,000円入っていた。まだ旅立つ前なのに。どなたかはわかりませんが、早速のお接待ありがとうございます。ありがたく使わせていただく。

国道沿いのローソンで朝ごはんを調達していよいよスタート。なんだかんだでグダグダしたので出発は七時近くになってしまった。

iPhoneの案内通りに道を行く。最初は案内に従うのにコツがいるので少し苦労するのだが、クセを理解してこれに慣れてしまえば、iPhoneから言われた通りに進むだけ、道順のことを考えてなくていいので、非常に楽だし、自転車で走りやすい道、たとえば横を車がビュンビュン走っているような大きな国道などは避け、車通りも少なく走りやすい脇道をスマートに提示してくれるので、疲労感がまったく違う。

そんな感じiPhoneナビに従っていたらあっという間に第一札所の霊山寺(りょうぜんじ)に着いてしまった。

実は霊山寺には以前一度観光で来たことがあるので今回は二度目となる。そうそう、こんな感じだった、久しぶり!という気持ちで、早速納経帳を買い求め、納経(納経帳という台紙にその寺に来て祈ったという証拠としてスタンプを押してもらう)を済ませようと思ってお店に入って腰を抜かした。なんと納経料が値上がりしている。事前の情報では納経料は一つの寺につき300円と聞いていたが、今年、2024年の四月からは物価高騰のあおりを受け、500円に値上がりしたのだという。

300円も500円も小さな金額じゃないか。そう思うかもしれないが、値上げ率で考えれば70%近い。それまで500円で食べられていた牛丼並が突然850円になる。それくらいの値上げ率である。

総計金額もバカにならない。そもそも納経一箇所300円だとしても、四国遍路は八十八ヶ所を巡礼する。つまり300円×88ヶ所で26400円もかかってしまう。貴重な体験だし、「願をかけ経を納める」ことがお遍路のそもそも根幹でありゲームルールである。出発するまでは気持ちよく納経だけはしようと決めていたが、これが500円となると500円×88ヶ所で44000円。さすがに無事遍路が終われば即、仕事を探さねばならない無職中年がおいそれと出していい金額ではなくなってくる。

それでも大事な納経だからと迷ったのだが、決定的だったのが納経帳(スタンプラリーの台紙みたいなもの)のサイズ。この納経帳、これまた一冊3000円程度と割とお金がかかるのだが、そのサイズが結構大きい。こちらは自転車旅で、荷物をできるかぎり削っているし、パッキングもしっかりしてるので、こんなデカい台帳を入れる余地がない。仮に無理に詰めこんだとして、寺に着いて納経するたび、それらの荷物を一時的に解いて中から納経帳を取り出さなければならない。それくらいやればいいじゃないか。そう思うかもしれないがここでまた例の掛け算が効いてくる。そんなこと88回もやってられるか。

もちろんいちいち荷解きするなんて、そんなことは現実的ではないので、お遍路側からは別のソリューションが提供されている。さっと納経帳を取り出せるように肩掛けの白い頭陀袋が販売されているのだ。これをお遍路さんはみんな身に付けることになっている。が、これまたこの頭陀袋に3000円ほどかかる。大して機能的でもない白い袋。自転車運転中、こんなの身に付けてたら絶対邪魔になるし疲労する。下手すると何かに引っ掛かって事故にすらなりかねない。「3,000円の納経帳を収納するために3000円の頭陀袋買ってそこに入れて。そうしたら納経できる。ちなみに納経はこの春から70%値上がりして一箇所500円だから八十八箇所合計でこちらは44000円ね」とか言われても。やる気失せるだろう。

そもそもお遍路の装備は一式マジで揃えると2万円から3万円はかかると言われている。自分もさすがにそこまではできないししたくない。SNSで意見を募ったところ「別にフル装備でなくてもいい」「輪袈裟と白装束だけでいいのでは」という意見があったので、これに従ったのだが、この時点でこの二つの装備にも実は結構不満がたまっていた。

まず白装束。とにかく恥ずかしくて着れたもんじゃない。自分にとって、巡礼とはもう少し「さりげなく」するものだというめんどくさい美意識がある。それなのにこの死装束の白装束。これじゃ「お遍路さん丸出し」である。恥ずかしい。

四国の人間からしたら「あいつは旅の人」「地元の民ではない」と一発で視認でき、態度を変えることができるから、そういう意味でこの衣装、非常に「機能的」かつ「合理的」なのだろうが、着る側からしたら非常に非合理である。袖があるタイプを購入したのだが防寒性能はほぼない。白いからすぐ汚れる。カレーうどんでも食おうものなら白装束をキャンバスに、地獄絵図が描かれること間違いなしだ。実際、昼食中、これを着たまま麻辣ラーメンを食べたら、汁が飛び跳ね、白装束が見事に麻辣の赤に染まった。血の池だ。縁起でもない。

輪袈裟も同様。身に付け方がヘタクソだったり間違えてたりがあるのかもしれないが、自転車で走っていると軽いのですぐにふわふわ浮いてきて視界にチラリチラリと入ってくる。引っ掛かったらどうしようと、これまた気になって仕方がない。さらに厄介なのはお遍路にある「ルール」である。輪袈裟や金剛杖などは神聖なものなのでご不浄、つまりトイレには持ち込んではならないとされる。こちらは頻尿なので頻繁に厠を利用するのだけど、その度いちいちこれを外さなければならない。特に大して役に立ってる実感はないのに邪魔にはなるという……。

実際、輪袈裟も白装束も笠も何もつけないお遍路さんも結構見かける。荷物すらほとんどなし。トレッキングポールだけ持って、蛍光色のハイキングウェアで巡礼している。もちろん全身フル装備のばちくそオールドファッションなお遍路さんもいる。要するに好きにやりゃあいいのだ。

閑話休題。結局、霊山寺の入り口にある納経所の軒先で、雨宿りも兼ね、1時間ほど思案していたが、最終的に「納経はしない」ことにした。

結構な倹約家のお遍路でも納経だけはする人が多い。だから宗教的に非常に意味のあることなのだろう。最後まで迷ったが、現世界での「かたち」に執着するのは逆に仏教っぽくないし、それを自分は必要としていないと最終的に思うようになった。結局、巡礼の本質は「祈り」にある。だからそれ以外は本質ではない。でもそれだけだと不安な人たち、それでもどうしても現世で「ちゃんとお参りした」という証拠がほしい人に向けた親切なプレイスタイルが納経なんだと悟ったのである。

別に納経をバカにしてるのではない。納経はむしろ非常に合理的なシステムだ。というのも、お遍路というあまりにも困難な巡礼の旅を乗り切る上で納経してるのとしてないのとではえらい違いがあるからだ。人間には「途中までしえしまった仕事には最後までコミットしやすくなる」という性質がある。だからたとえば勉強がなかなか始められない人や筋トレがなかなか続かない人に「とりあえず教科書出すだけでもしてごらん」「ジムに行くだけでいいから行ってごらん」と言うのである。それとまったく同じで、心挫けそうになったとき、「でもスタンプ既に30個も集めちゃってるしなあ……」がかなり効いてくる。毎回お寺に到着するたび500円を支払う【だけ】で巡礼の成功確率は確実に大きく向上する。考え方によっちゃあ「安い」のだ。

ただ自分のような性格の人間は、最初で少しでも不満を覚えてしまうと、それが毎回小さな「イヤ」になり蓄積し、途中でウンザリして止めてしまう可能性が高そうだったので「納経はしない」という選択をすることにした。ただし浄財は別だ。寺ごとに少なくない金額を投入してこようと思う。

とまあ一番札所からあれこれ悩み考えてしまい、ちっとも遍路が前に進まなかったのだが、一度決定をしてしまえば、後は粛々と「進む」だけだ。納経料値上がりの件でわかりやすくテンションが下がりまくっていたが(笑)思いわずらうことがなくなったら身が軽くなった。

そろそろ出発しようかという矢先、白装束を着たおじいさんが話しかけてきた。「それ(と言って自転車を指す)でまわるんですか」。そうですと答えると「私もまわりたかった」と言う。自転車でのお遍路を諦めたのはなぜなんですかと聞くと「病気になってしまって」とのこと。そうか。健康なうちでないとできないこともある。この歳で自転車旅だなんて青臭いなとも思ったのだが、この方のお話を聞いて「今だからこそできる」「やる意味がある」と思えた。ありがとうございます、あなたの分まで自転車遍路楽しんできます!と言うと「私も自転車遍路は2回しかできなかったから」とおじいさんが言う。え???経験者なの??

話を聞くとどうやらこういうことらしい。とにかく自転車が好きなこのおじいさん。発心して自転車で既に二周、お遍路を回ったと。妻は自転車はイヤなので自動車を使って一緒に回ったらしい。3回目、つまり今回も回ろうとしたが病気で体力がさすがにない。仕方ないので今回は妻と一緒に自動車で回りはじめた、とのこと。要するに自転車遍路の大先輩だったのである。

そこでこの方に自転車遍路の難所について尋ねたところ「遍路ころがしと呼ばれている焼山寺はそうでもなかった」「でも太龍寺はえぐかった」とのこと。また納経についても尋ねると「一周目はしたけど……二周目からはどちらでもいいと思ってしていない」のだそう。値上がりの件について伝えると「ますますする意味を感じない」。とはいえ、このご夫婦、本当に信心の深い方で。本堂や大師堂で真言を唱え作法に則って礼拝していた。

雨はまだ少し降っていたが、いつまでもここに留まるわけにもいかない。二番札所の極楽寺へと向かう。霊山寺との距離は1、2km程度で大変短い。数分たらたら自転車をこいでいたら呆気なく着いてしまった。

極楽寺の本尊は阿弥陀如来とのこと。とは言え、このお寺には阿弥陀如来以外にもたくさんの仏像があり、そのどれもが大変美しい。お遍路なのでもちろん信心、礼拝のために来ているのだが、この頃には気分は「仏像ミュージアム巡り」のようになっている。iPhoneのポートレートモードで撮影すると、これまたツヤっときれいに美しい写真が簡単に撮れてしまう。やばい。お遍路楽しくなってきた。

極楽寺には寿命が伸びるとされている縁起のいい大杉や、田渕美雄の像などがある。田渕って誰やねん。知らない人はそう思うかもしれないが、四国遍路を死ぬまでに100周近くしたというレジェンドクラスのお遍路さんである。「上には上がいる」とはよく言うがさすかに100周はあまりに到達不能すぎて笑う。

境内を歩いていると目の前に小さなお地蔵様があった。横にある説明書きを読むと、これは「抱き地蔵」というらしい。願い事を心に描いて地蔵を抱き、軽く感じられたら願いが叶う、重く感じたらまだまだ精進が必要だとわかるとのこと。いや、そんなこと先に言われたらめっちゃ重い想像をしておけば抱いた時にどうしたって軽く感じるのだから絶対「願い叶う」し楽勝じゃんと思い、かなり重たい想像をしてから、「次の仕事が早く決まりますように」と願をかけ地蔵を抱いたのだが、気づいたら口から「重ッ」と声が漏れていた。精進。するしかない。

極楽寺から3kmほど進み、三番札所の金泉寺へ。こちらも境内にある仏像が見事。比較的時代も新しいのかな。きれいな各種仏像がならぶ。中でももっとも気になったのが弁財天。琵琶の持ち方がマジ、ロックスター。ウクレレが上手くなりたいので願をかけ浄財をした。関係ないが門にもAEDが設置されていたり、どことなく比較的新しい印象を持った寺だった。

次は四番札所大日寺へ。極楽寺からの距離は6kmほどで距離としてはそこまでではないのだが、最後、少し山を登ったところにあるため、到着した時には少し息が上がっていた。こちらはなかなかにモダンな寺だ。寺って割と駐車場があり、門があり、中は階段になってて……と、いかにも「寺!」という感じがこれまでは
多かったのだが、大日寺は本堂にいたるまでの外構、エントランスを見ても非常に上品というか、センスを感じる。実際案内なども充実しているし、常に日本語と英語の併記をしていて、感覚がグローバルなのだ。納経についても「まずはお祈り。お祈りが済みましたら納経いたします」と言ったようなことが何箇所か書かれており、モダンでグローバルなのだがチャラくはない。護符や経文なども販売しているのだが、たとえば護符については「売上は全額被災地に寄付する」(どこの被災地かは失念)などとあり、商売っ気があるというわけではない、いたって真面目な寺だという印象を受けた。

次は五番札所地蔵寺。こちらは大日寺からほんとすぐ近くにあるのだが、ハイソでモダンでグローバルな感覚を滲ませていた大日寺とは真逆の、いかにもド庶民という結構のお寺だ。入り口の真ん前に非常に簡素な「製造直売所」がこしらえてあった。何かイベントがあるときはここでの物販が盛り上がるのだろう。残念ながら本堂は工事中とのことで外観をつぶさに眺めることはできなかったが、お参りは済ませてきた。ツアー遍路のグループが皆で経文を読み上げていた。

コンビニでお弁当を買い昼食を済ませた後、六番札所温泉山安楽寺へと向かう。地蔵寺から4kmほどの距離にあるこの寺は、昔、温泉が出たことから空海がその名を授けた寺とのこと。境内に入ると、右手に非常にきれいな、まるで旅館のような建造物がある。どうやら専用の宿坊のようだが、修学旅行とかで泊まる旅館。あんな感じのイメージである。境内を見渡すと荷物をどーんと広げてお弁当を食べてる女の子がいる。ふとその近くを見ると5、6人の子どものお遍路さんがいた。大人の男性2人が引率していた。「歩きお遍路ですか」と尋ねると「はい。何度かに分けてですけどね。近くのK町から来てます」とのこと。K町にはいろいろ因縁がある。移住者も多いエリアでかなり「選(町)民思想」も強めな場所なので、個人的に相性が悪く、イヤな目に遭うことが多いので軽く挨拶をしてその場を離れた。

続く七番札所十楽寺へ。安楽寺から非常に近いのであっという間に着いてしまう。すると先ほど安楽寺で出会った子どもたちとまた出会う。元気にワイワイ言いながら境内に入っていく子どもたち。微笑ましく見ていたら、その後をついていった引率の男性が軽く咳をしたと思ったら、なんと門前に痰を吐き出した。さすがに自分が見たものが信じられずポカンとしてしまった。自分も信心は薄いほうである。既存の手順や決まりも「必要性」を感じなかったら別にいいやで端折ったりしてしまう、いい加減なやつである。とはいえそんな自分でも、さすがに仏門に向かい文字通り「ツバを吐く」勇気はない。先の寺でのイヤな予感は的中。この後も不愉快にはなりたくないので、もう二度と遭遇しないようにと旅を先に急ぐ。

八番札所熊谷寺(くまたにでら)に到着。こちらも少しだけだが山の奥にある。落ち着いた雰囲気の大変風情のあるお寺だ。境内に向かう途中の道、両脇の木が道に向かって枝を伸ばしていて、参拝者がまっすぐ進むとこの枝にぶつかってしまうため、屈んだりしてよけながら進まなければならない。それでも木の枝を折ったりはしないところに、この寺の考えを見た気がする。

九番札所の法輪寺はすぐ近くにある。寺の前に侘びた茶屋がある。近くに農家さんもいらっしゃるのだろう。すだちが一袋100円で売られていた。すだちはお味噌汁にしぼって入れると大変おいしい。徳島を今後離れることになっているから最後のすだちになるかもしれない。100円を入れてすだちを持ち帰った。

続く十番札所は切幡寺(きりはたじ)なのだが、これが非常に辛かった。これまでの寺とは比べ物にならないくらい山奥にあり、傾斜もすごい。一応石の階段はつけてはくれているのだが、なんと333段もあるという。体力に自信があるほうでは決してない。さすがにあまりにもきつかったので、途中何度も休憩しながらようやく本堂までたどり着くことができた。ただ苦労はしたが、ここにあった仏像は個人的には非常に感じいるものがあった。なんと言えばいいのか。インドっぽい顔をしている。

次の藤井寺(ふじいでら)まで行きたかったが、雨もまた降り出してきた。寝泊まりする
場所も考えなければならない。藤井寺の近くに「鴨の湯」という銭湯があり、こちらが善根宿(お遍路さんにお接待する無料の宿泊施設)を提供しているという。たくさんその手のお遍路記やブログがあったので、いわばメジャーな宿泊先の一つ、お遍路なら必ず行くくらいなところなのかもしれない。そう思ったので鴨の湯に行くと、写真の通り、もう完全に黄色いテープでkeep outされている。

白装束を着ていたからだろう。隣の鴨の湯の受付に行こうとすると、店員から「隣の善根宿は休んどるけんね」と事前に釘をさされてしまった。ただお遍路さんにはお遍路割引が適用されるとのこと。入浴料、通常600円のところが500円に。ありがたかった。

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