『リトル・マーメイド』は四半世紀かけて何をアップデートしたのか

『リトル・マーメイド』見てきた。黒人俳優ハリー・ベイリーのアリエル役への起用が話題に。「肌の黒いアリエルなどありえない」「アニメと髪型が違う」などという一部の頭の硬い連中のせいで「炎上」にもなったわけだが、いやいやどうして。結果は皆様ご覧の通り。興行成績も文句なしなら作品としての質もそれはもう、大変素晴らしいものだった。 感動した。映画館で泣きっぱなしでしたよ、おじさんは。

で、家に返って映画館の余韻に浸りながら、ふと考えたわけ。

「てか、元のアニメのリトル・マーメイドはどんな話だったの?」

そうなんすよ、自分、アニメ版、実は未体験だったんっすよ。そんなやつって他にいる? アニメ版見たことないのに実写見にいったやつ。

というわけで早速ディズニープラスに入り、アニメ版を視聴。そこで1989年アニメ版『リトル・マーメイド』から2023年の実写版『リトル・マーメイド』で何が変えられてるのかをぜんぶチェックしてみた。

「アリエルこんな髪型じゃない」とか、しょうもない文句をつける前に。あそこも気になる、ここも違う。もっと大きな変更点のほうこそネチネチネチネチ気にしたらどうだ。

アニメ版から実写版、1989年から2023年に変わる中で一体リトル・マーメイドは何をアップデートしたのか。主軸となるストーリーは概ね過去作を踏襲しつつも、その細かい変更点を書き出すと相当な数にのぼる。ここでは以下4点にしぼって論じてみたい。



1.魚類に対する「人権」意識の向上

アリエルの髪だの肌の色だの以前に、まず一番に、誰でも気づくべき変更点がある。アニメ版にあった魚類惨殺シーンが実写版ではすべて消されてる!

アニメ版では、宮廷付きのシェフが楽しそうに魚を「料理」するシーンがある。顔色の悪い、気持ち悪い笑い方をするシェフが魚に包丁をおろす。ふっとぶ魚の頭のアップ。それを見て震え上がるセバスチャン……。「新鮮なカニがいる」とシェフがセバスチャンを追いかける。アリエルの前に置かれるのは、おいしそうな魚料理、もとい無惨にも殺された同族の惨死体……。

さすがにこれは2023年にそのままにはできんだろーー!!

てか、実写ではできんだろーー!!

当時としてもこのシーン。相当違和感あったのではないか。シェフとセバスチャンの追いかけっこのシーンはトム&ジェリーなどを彷彿とさせる。いかにも昔のアメリカアニメらしいほほえましい一幕ということなんだろうけども……(チェイスも見たいでしょ?というサービスのつもり)。

どれだけエリック王子とアリエルが惹かれあっていようが、このシーンがあるだけで「え?捕食者っすか?」「食うか食われるかの関係っすか」となってしまい、なかなか話に没入することができない。

実写版のエリック王子も、魚料理が大好きなのかもしれない。が、わざわざ作品内でそんなことを描写する必要はない。

様々な事情や考えから、肉だけでなく魚を食べない人だっている。アニマルライツ擁護等の文脈からも、必要もないのに、作品内で魚類や甲殻類を惨殺するべきではないのでは…..妥当な変更だろう。


2.変えられたのはアリエルの髪だけではなくて….肌色からの玉突き変更

事前のネットでの「炎上」では、アリエルの肌の色、髪型が「原作と違う」とさんざ文句を言われていた。てか、原作ってなんやねん、アンデルセンかいって話だったわけだが、原作云々はさておき「肌の色の変更」は作品内に「それだけでは済まない」変化をもたらす。

というのも、アリエルの肌の色はどう設定してもらってもいいのだけれど、父親であるトリトンと異なってたら「どういうこと?」とはなるからである。アリエルの肌は母親ゆずり?

ところがそうなると、今度は他のマーメイド姉妹もアフリカン・アメリカンの肌色で統一していかなければならない。もちろん母親は複数いてもいいわけだが、その場合、マーメイド王族はトリトン中心の一夫多妻という設定になってしまう。

一夫多妻はさておき別の問題もある。アリエルの肌が黒いのはいいとして、じゃあ、アジア系のプリンセスにしてくれないのはなんでなの?などといった話だって出てくるからだ。そこで制作側がいろいろ考えて出した結論は、

もうマーメイド姉妹、全員バラバラでいいじゃん

というものだった。

1989 年のアニメ版では、アディーナ、アラーナ、アデーラ、アクアータ、アリスタ、アンドリーナ、アリエルという7人姉妹、基本肌の色はみんな白っぽく、名前もすべてAから始まると統一していた。

が、実写版ではこれをタミカ、カスピア、インディラ、カリーヌ、ペルラ、マラ、アリエルとバラッバラな名前にし、象徴するエスニシティも全員別々にしてしまった。

様々なエスニシティのマーメイドプリンセスが出てきたのはいいけれど、今度は一夫七妻?などと結構引っかかってしまう。そこで制作も考えた。

マーメイドプリンセスは世界のそれぞれの海を守護してる!

これなら、なんというか、なんとなく、難しいことはいいじゃないの、「とにかく象徴する海によって見た目とかキャラクターとかいろいろあるんよ」って思えるというか…..。

しかし、そうなると今度はまた別の問題が出てくる。「なんでそんなに世界のバラバラの海にいる姫たちが一同に会するの?」「画面の中にうつりにくる必然なくない?」。

そこで制作はさらなる設定を追加する。

「コーラルムーンっていう時期があるんすよ」「コーラルムーンの時期はみんな世界から集まるんすよ!!」

それはいいのだが、そうすると今度は89年アニメ版にあったような、日常的に行われていた宮廷コンサートという設定はどうなるの?という話が出てくる。

89年アニメ版ではセバスチャンは宮廷音楽家という設定だった。そして、そのセバスチャンの新曲と末っ子アリエルのデビューお披露目講演ということで、姉妹とトリトンが集まるところから物語が始まっていた。

「末っ子のアリエルが一番歌がうまい、声が素晴らしい」「さてどんなデビューになるのだろう」と盛り上がっていたところ、アリエルは自分が主役のコンサートをすっぽかし…..という流れだ。

このアニメ版の流れは大変秀逸で、「え?そんなに声の美しお姫様がいるの?」「一体どんな声?」「早く聞きたい」と視聴者に思わせ、コンサートのシーンを見ていくと、いよいよアリエル登場の段になり貝殻が開くのだが、その中にはあれれ?アリエルはいない……ってんで待たされる。その後、沈没船の中を冒険し、サメを撃退したアリエルがようやく歌い出すのが、名曲Part Of Your Worldという流れになっているのだ。

視聴者からしたらサスペンドもいいとこ、待たせに待たされようやく聞こえてきた歌の素晴らしさを印象づける完璧な流れになっている。

ところが、上述したように、アリエルの肌の色を変えたところから他のプリンセスの表象も変更に。そこから日常の宮廷コンサートの設定もなくなってしまったというわけ。結果、アニメでは宮廷音楽家だったセバスチャン(だから名前も「セバスチャン」だったのに)は、王様の付き人?大臣?のような役割に変わってしまった。

私はこれらの変更は必要だったと思うし、多様なエスニシティのマーメイド姫たちは実写版ならではの魅力に優れていると思うし、結果として素晴らしい変更だったと考える。ただ、アニメ版にはあったコンサート、沈没船、サメ撃退からのアリエル歌唱という美しい流れがなくなってしまったことはそれでも少し残念ではある。


3.契約は絶対!アースラとの取引その一部始終

なんていうか、人魚姫の話を文字に書き出したら「むちゃくちゃやな」と思わざるをえない。

「人魚のお姫様が王子様好きになってん。そんで魔女と契約してん。声が一切出なくなるけど人間の姿になれるって契約やねんけど。せやけど3日以内に王子様と恋人としてキスできんかったら、アースラの呪いで元の姿に戻れんくなんねん」

これ聞いて「そんな条件の悪い契約をそんな怪しいやつとすんなよ」って思いません?

いや、もちろん「それくらいアリエルは王子様のこと好きなんだよ!」て説明は一応できるけど、『アナと雪の女王』で「別にプリンセスだからって恋愛なんて必ずしなくてもよくない?」って相対化まで既に済ませてるわけじゃないですか、ディズニーとディズニーがある我々の世界は。それでも「好き」「愛してる」という感情にそこまでの納得をしてくれるかっていうと……。

「別の相手探せばよくない?」
「遠くから見るしかない恋愛を経験するのも悪くないじゃない?」
「その姿のままを愛してくれる人じゃなきゃ一緒になっちゃダメじゃね?」

といったツッコミがいくらでも思いついてしまう。何より

「契約したんだったら契約したやつが悪くない?内容もちゃんと説明受けたわけでしょ?」

特にアメリカは契約社会。契約したんならそいつの好き勝手では?

要するに一言で言うと、どう言っても「魔女なんかと契約しちゃうアリエルがアホな子なだけ」と言われる隙ができてしまっているのだ。

具体的にアリエルと魔女アースラがどのように契約したのか、89年のアニメ版でその流れを見てみよう。

まず、大前提としてアリエルは16歳の女の子という設定になっている。王子様に恋をしたアリエルにアースラが会って契約を持ちかける。でも、その内容を聞いたアリエルは「声がなければどうすればいいの?」と疑問を提示する。それに対してアースラは「ルックスだよ!」と答え、歌いながら説明する。

アニメ版『リトル・マーメイド』より引用

アリエル:
でも声がなければどうやって……

アースラ:
ルックスだよ! かわいい顔してるじゃないか
ボディランゲージが大事だってわかってないんだね
そもそもオトコはおしゃべりなんか好きじゃないんだ
女の話なんて退屈だって思ってるよ
一言も喋らない物静かな女のほうが愛されるんだよ
結局、ねえ、無駄話なんて何になるのよ

いい? 会話で魅了される男なんていない
なんなら本物の紳士ってのは会話なんて避けるもの
男が溺愛し、うっとりし、マジ惚れするのはものしずかな女なんだ
男をゲットするのは、一言も話さない「わきまえた」女なんだよ

ここまで言われたアリエルは、目をつぶりながら思い切って、自分の一番の魅力である声を失う契約書にサインする。

むちゃくちゃな契約にサインするアリエルを正当化する理屈はいくつかある。

  • アリエルは16歳でまだ若い。正誤や善悪を判断する経験がまだ不十分である

  • アリエルはそれだけエリック王子を愛している

  • 話さない物静かな女が男は好きである

しかし、これらの根拠は逆にこのシーンを現代的な価値観で見た場合に説得力の薄いものにしてしまっている。

  • 16歳なら未成人。そもそも契約無効では?

  • 16歳の恋愛を許すのはわかるがその身を案じて家を出ることはまだ許さないトリトンは親としてまともでは?

  • 恋愛ってそこまでしてするべきもの?

  • 喋らない女がいいって….昭和かよ

  • とはいえ、契約書まで書いたってことは「それでも同意した」ってことなんだから魔女、悪くなくない?

そこで23年の実写版ではアリエルの年齢を18歳に変更(映画内で言及はないが公式設定ではそうらしい)。「喋らない女がいい」とアースラが歌うくだりはまるまるカット。「でもそんなこと悪いことよ」とアリエルに言わせ、それでも強引にアースラが勝手に「いいから言うこときけ!」とばかりに「契約」(なのかこれ)が進んでしまう。契約書にアリエルが自分の名前を書く、サインするシーンもカット。

結果、「なんかアースラに勝手に目をつけられて、勝手に呪いかけられてしまった」「でも、足が生えたからには人間世界を楽しんじゃうし、あとはなんとかするしかない」という感じの描写に変わった。

「女との会話は退屈」どころか、倉庫?で地図を指差しながら、アリエルとの会話を楽しむエリックのシーンも実写版では追加。全体的に「大人な判断もできるし魔女との契約も悪いことだとわかって断るくらいアリエルは賢いし、そもそもアースラがやってたのはあれ、契約じゃない」と書き換えられた。



4.ロイヤルファミリーであること。そして恋愛。

みんな肌の色だ髪型だにこだわってるみたいだが、ディズニーのプリンセス映画で本当にシビアにつっこまなければいけないのはそんなところではない。大事なのは次の2点である。

  1. 言うても結局王子様とお姫様のロイヤルカップルを「素敵」と言うんかい。血筋かい。

  2. 言うてもお姫様って結局恋しなくっちゃダメなんかい

この2点だ。

実は89年版からリトルマーメイドは「ポリコレ」だった

今から見ればポリティカルには気になる箇所ばかりの、アリエルの肌の色さえ白い89年アニメ版だが、実はそれでも当時はそれなりに「政治的に画期的」なプリンセス観の書き換えがなされていたりする。プリンセス=「当時の女のロールモデル」をアリエルがぶっ壊しまくってるのだ。

  • 女だからって常に見られる側じゃない。客体じゃない。

  • 王子様から助けられるのを待ってるわけじゃない。

  • 科学や世界に興味がないわけじゃない。

89年アニメ版のアリエルは歌うことよりも、沈没船に、人間の広い世界に興味を持つ。そして難破した王子様を「救出」し、「王子様に助けられるお姫様ではなく王子様を助ける」お姫様になる。王子を見ながらアリエルは言う。「ハンサムね……」。見られるのは男。見るのが女。なんなら救出したエリックを見ながらアリエルは「とても美しい人ね」(You are so beautiful)と言う。昔のプリンセスだったら王子様がいいそうなことを言うお姫様がアリエルなのだ。

ところが、それでも「プリンセスもの」ということであるなら、本節冒頭の2点、つまり「言うても血筋に憧れあるやんけ」「恋愛するのがお姫様の仕事やんけ」ってところはどうしても「縛り」として受け入れざるを得ない。

我々は既に『アナと雪の女王』を通ってるので「別にプリンセスだからって恋愛しなくてもよくない?」とはわかっている(と思いたい)。だが、だとすると「アナ雪以降なのにまだ恋愛とかいっちゃってんの」という保守性を、2023年にわざわざ実写化するならば、批判されかねないのだ。

とはいえ、新しい題材ならともかく、既にある人魚姫の話で「王子様とも恋愛しないプリンセス」を描くのはなかなか難しいだろう。果たしてディズニーがそこで取った方法とは。

身分ではなく職業としての「王子」

まず「結局、血筋かい」に対しては、エリック王子は実は女王がどこかで拾ってきた子だったといった設定描写が実写版ではなされている。黒人の女王と白人の王子の間に血のつながりはない。(というか、実写版になってはじめて登場したのがこの「女王」というキャラクターである)

そして23年の実写版では「王子」は「身分」なのではなく、一種の「職業」であるかのような描写がなされている。

実はアニメ版ではなぜ王子が船に乗って危険な航海をしていたのか、ろくな描写がない。てか、王子がそんな危ないことしてる時点でおかしいだろう。死んだらどうする。ご世継ぎだぞ。

そしてアニメ版の王子は「世継ぎ」のことばかり考えている。お見合いがあったもののその相手はひたすら拒否。「早く相手見つけてもらわないと困ります」という付き人に対し「必ず運命の人を見つけてみせる」と意気込むアニメ版のエリック王子は、恋すること、すなわちご世継ぎだけしてればいいお姫様化した王子様というご身分なのである。

ところがこれに対し、実写版のエリック王子が航海に出るのは明確な理由がある。今後、国をよくするために今のうちに世界のことをもっともっとたくさん知っておきたい、というのがその理由である。

そして実写版エリックは結婚すらしなくていい。なぜなら、生殖なんてする必要ないから。優秀な、あるいはなにかの縁で知り合った子どもを次の王として育てればいいだけ。自分がそうされたように。

ここでは恋愛=結婚とリプロダクション(生殖)、リプロダクションと国体が切り離されている。王子が王子をしているのは「たまたま」で、王子様という立場はあるけれど、その立場は「仕事」のようなものになっている。

こうして実写版リトルマーメイドは「言うても血筋やろ」に「いいえ、ご職業です」と答えることになる。

恋愛はする。でも、恋愛はそんなに大事じゃない

「結局、プリンセスは恋愛するんかい、せなあかんのかい」。こちらのツッコミについて、実写版『リトル・マーメイド』が出した答えはこうだ。

しなきゃいけないことはない。もちろんするのも素敵だと思う。だけど、恋愛が、恋愛だけがそこまでそんなに素晴らしいってわけでもない。

実写版『リトル・マーメイド』にも確かに恋愛要素はある。王子様とキスしないと呪いが解けない設定は生きてるし、なんなら最後はエリックとアリエルで結婚式を挙げて「ハッピー・エンディング」だ。

でも、なんかその「恋愛」へののめり込みが全体的に薄いのである。

アニメ版のアリエルは言うても「恋するティーンエイジャー」だ。王子様の銅像を見ながらぼんやりと物思いにふけってみたり、「愛してる、愛してない……」と一人花占いをする。

お約束の「プリンスとプリンセスのキスシーン」もなんと2回もある。

ところが実写版ではこれらの描写はぜんぶカット。キスシーンはあるけれど、1回キスしたあと、トリトンが出てきてトリトンとアリエルで親子邂逅のシーンになって……要するに「そっち」のほうが大事であるかのような描写になっている。エリックとの「くっつき」はまるで「前座」扱いなのだ。

『アナ雪』を通過した我々は既に「恋愛なんてしなくたって構わない」ことを知っている。そもそも時代が「恋愛って言うても人生のワンオブゼムじゃない?」くらいに変わってきてて、昔ほど恋愛セントラルじゃなくなってる。

「恋愛するけど温度感そんな高くない」実写版の恋愛描写は、ポリコレ的な書き換えでもあるのかもしれないが、同時に割とリアルな、現代における恋愛の地位そのものという感じもした。

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というわけでいかがだったでしょうか。以上は「変更点」のほんの一部です。他にもたくさんあるので、ぜひみなさんもアニメ版を見直してみてくださいね。

こんな感じで今後もnoteで映画感想を書いていければと思っています。応援してくださる方、チップやいいねいただけると嬉しいです! そのお金でまた映画館に行きます(笑)。

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森さんの全noteです。ここにしか収録されてない「ボートラ」入り。

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