古今亭文菊 淀五郎・居残り佐平次・心眼

忘れていたものを、もう一度思い出すために
そっと目をとじて、記憶の深海に沈みゆく

 今日という一日は人生で一度しかやってこない。その一日の中で、どれだけの幸福を味わうことができるかは、その一日を生きる人それぞれに委ねられている。
 周りから見て、どんなに怠惰に見える一日でも、
 周りから見て、どんなに苦しそうに見える一日でも、
 その人自身が幸福を感じているのなら、それはそれで素敵なことだ。
 
 一日の終わりに、鈴本演芸場に行って古今亭文菊の落語を見る。人生で、あと何度そんな体験ができるだろうか。あと何度、幸福で、これ以上ないと思えるような演芸に出会うことができるだろうか。
 考えても、答えはでない。それでも、
 演芸に触れようという心を持ち続ける限り、
 人生の一瞬一瞬が、演芸によって彩られていく。
 それは間違いの無いことだ。
 今を生きているすべての人々に、演芸は開かれている。
 演芸に触れたいと思う人たちのために、寄席はある。
 そして、その寄席で、自分の大好きな、
 もはや、好きという言葉ですらも足りない、
 自らの幸福そのものである落語家が高座に上がる。
 生きているだけで素晴らしい奇跡なのだ。
 そう思いながら、僕は古今亭文菊の落語を聞いた。

 古今亭文菊の『淀五郎』は、僕にとって忘れられない一席になった。今回の鈴本演芸場のトリ興行において、もしもどれか一つを選べと言われたら、僕はまちがいなく『淀五郎』をあげる。それほどに素晴らしかった。
 素人が何を言うかと思われるかもしれないが、『淀五郎』には、古今亭文菊という落語家の生き様が詰め込まれているように思える。それは、様々な思いを抱えながら、先代の圓菊に入門し、10年目に28人抜きで真打となった。思えば、亡くなった柳家小三治の推薦である。
 そうして、真打の披露目中に師匠である圓菊がこの世を去り、ただ一人取り残された古今亭圓菊一門の末弟子として、どれほどの心労や不安が文菊を襲ったのか、僕には想像もできない。
 まして、落語の世界は厳しい世界である。この時代にあっても、コンプライアンスなどという言葉は通用しない。裏を返せば、それが『落語の世界らしさ』ともいえるから、僕は特別に何かを言うことは無い。
 ただ単純に、落語の世界というものを外界から眺めていると、そこにはどれだけ時代が変わっても、守られなければならない、落語ならではの掟というものがあるように思える。それの良い悪いは別として、それほどに厳しい世界であるように思えてならないのだ。
 芸の道ほど、修羅の道。そんな世界を己の芸一本で生きていくことの難しさ。世間の常識が芸の非常識にもなりうる世界。そんな世界で、自らの輝きを失うことなく、むしろ磨きを増して燦然と輝く存在。それが古今亭文菊であると僕は考えている。
 何がどう、という話ではない。
 古今亭文菊の魅力など、語りつくせる筈がない。
 語りつくせない存在だからこそ、僕は語りたくなるのだ。
 厳しい世界で、切磋琢磨する『淀五郎』もまた、己そのものを見失い、様々な人の助けを得る。本来は、そんなに優しい世界ではないかもしれない。芸で生きていく覚悟のないものにとっては、芸で死ぬことすらも許されない世界でもあるのだ。
 『淀五郎』は、芸で生きていく覚悟が揺れ、芸の道を諦めようとする。怒りのあまり、死なばもろともと、あろうことか殺人と自殺まで考える。
 そんな、『淀五郎』の受け皿となる存在が、これもまた芸の道で苦労し、工夫を重ね続けた名人、『中村仲蔵』である。
 この世界で、こんなに苦労をしているのは自分だけだと思うようなことがあっても、同じ道を進む先輩たちもまた、同じように苦労をしている。もしくは、それよりもはるかに辛い苦労をしている。だからこそ、互いの苦しみが分かる。そして、同じように苦しんで、苦しんで、苦しんで、それでも自分が信じた芸というものを信じて、這い上がってこいと思っているのだ。
 身を切られるような、逃げてしまいたくなるような現実から、『淀五郎』は逃げずに努力し、立ち向かっていく。
 そして、その努力の成果を舞台で披露する。
 古今亭文菊の『淀五郎』には、はっきりと、主人公である淀五郎の成長が見て取れる。そして、その淀五郎に文菊の生き様が重なって、僕のような文菊大好き素人は、感極まって涙してしまうのだ。
 古今亭文菊も淀五郎も、『芸に命をかけている』。それは、決してお涙頂戴の、作為的なものではない。真剣だからこそ、嘘がないからこそ、古今亭文菊の中で、「命をかけたな」という言葉が、痺れるほどに見る者の心を打つのだ。
 これほどに、痺れた一席はなかなかお目にかかれるものではない。
 しばらくの間、あまりの凄まじさに席を立つことができず、翌日になっても忘れることができなかった。
 古今亭文菊の『淀五郎』。これを見ずして死んでいたかと思うと、ぞっとするほどの素晴らしさだった(生きているけど)

 翌日の包丁は、淀五郎の衝撃もあって見ることができず、翌々日の居残り佐平次を見た。
 軽快な語りと、人物描写、何よりもリズムが良い。
 その時代の雰囲気をまとった素晴らしい語りだった。

 翌日の心眼は、もはやいまさら語るのもおこがましいほどの素晴らしい一席だった。梅喜の葛藤を語る場面や、目が見えることによって起こる人間の浅ましさなどが、より一層濃く、深く語られたように思えた。
 
 そうして、あっという間に楽しい日々が過ぎてしまい、私は最後に百年目を見た。


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