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恋文を書いた話。

恋文。それは意中の人へ想いを伝える手段の一つである。
僕は、高校生の時に恋文を書いたことがある。
なぜ、書こうと思ったのか。
それは僕が高校時代に古文に熱中していたからである。
そこでは恋文のやり取りが盛んに行われていて、僕は、その奥ゆかしさにときめきを感じてしまったのだ。
平安時代の恋文には和歌が添えられる。歌を詠む技術が問われるのだ。何せあったことも話したこともない人に文を送るのだから、そこでズドーンと意中の相手を撃ち抜かねばならない。
僕はそれをなんと素敵なことかと思った。
僕は、高校生の時、古文の成績だけがすこぶる良かった。もう十年以上経つが、いまだに助動詞の接続や基本的な単語は覚えている、もちろん使う機会はない。英語や数学は人よりちょっとだけ良いくらいだった。理科は壊滅的だった。
そして、高校生の僕と言うのはなんせ恋愛の経験が皆無だったので、どうすれば良いのか全くわからなかった。
だから恋文を書くことにした。
詳しい内容は忘れてしまったが、あなたの笑顔や声、頭の良さに惹かれたみたいなことを綴っていた。
あろうことに最後に和歌を詠んだ、ということは覚えているのだが、思い出せないのが悔しい。僕は、古文の授業中、授業をろくに聞かずに和歌を書くための訓練をしていた。教科書に出てくる和歌や、百人一首、源氏物語などを読み漁り、和歌の研究に励んでいた。
おそらく覚えていないのではなく、記憶から抹消したのだろう、きっと。

和歌の美しさのひとつとしてその奥ゆかしさにある。好き好きーみたいな直接的な言葉は用いずに婉曲的に想いを伝える姿がカッコ良いと思ってしまったのだ。
僕は、家で勉強の傍ら、恋文研究をしていた。どうすれば好きと表現せずに好きと言う気持ちを伝えられるのか、出来上がった文章を読んでは消して、読んでは消して推敲していった。
そしていざ清書をする段階になった時に、これはおそらく筆で書いた方が良いだろうと思ったので、筆ペンを買った。

恐ろしいことに、ここまで到達するまでになんの疑念も抱かなかったのだ。
考えてみてほしい。この現代に筆でしためた(筆ペンだけど)恋文をもらってどう思うのか。仮に相手が僕のことを好きであったとしても、おそらく考え直さなければならないだろう。こいつはちょっとやばいぞと。

僕は、その文章を書くことに酔っていた。自分によっている恋文ほどおぞましいものはないと思っている。

テストが終わってから恋文を渡そうと思っていた。
テスト期間中ってなんだかおかしなテンションになっていて、勉強ももちろん頑張るんだけど、そのせいで、恋文なんかを書いてしまったのである。

テストが終わってから、いざ渡そうと思ったのだが、なかなか決心がつかなかった。念のためもう一度自分で読んでみることにした。確かこんな感じだった。
「あなたの笑顔に魅せられり。ひねもすあなたのことを考えるを止めることいと難し。(中略)」

あまりにも気持ち悪すぎて僕はその手紙を破り捨てた。こんなものが相手に渡ってしまったら大変なことになると思った。よく考えたら、せめて現代の言葉で書けば良かたのではないか。よく考えなくてもわかるだろう、とツッコミたくなるが、当時の僕は大真面目だった。

ちなみにそのときの古文のテストはクラスで1番だった。
大学生になって塾のアルバイトをするようになって、古文を教えられると言うのは大変重宝されたので、まあそれはそれで無駄じゃなかったと思った。
高校生からも古文マスターと呼ばれていた。

だが、肝心の思いは伝えることができなかった。
放課後に呼び出して、ただすきだといえば良かっただけなのに。
まあ、それができたら恋文なんて書こうと言う発想に至らないのだけれど。
当然だが、それ以来恋文を書いていない。おそらくこの先もないだろう。

あまりにも恥ずかしい思い出なので、ここでお焚き上げということで。

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