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日記4月24日(水) ブルー

水曜日は憂鬱だ。メンタルクリニックに通っているからだ。今は二週間に一回の通院で済んでいるが、はやく月一くらいになれるように回復したい。クリニックは清潔感があって、広々としていて、それはよいのだけれど、他の人を見て、ああみんな辛い思いをしているんだ、と思うと、ものすごく疲れてしまう。悪い気を吸収してしまうような感じになってしまう。こういう時にどっしりと構えていられたら良いのだけれど、なかなかうまくいかない。
帰りの電車では、小川和『日常的な延命〜「死にたい」から考える〜』を読んでいた。こんな書き出しだ。
朝、ふと目が覚めて、少ししてから「死にたい」と思った。理由はわからない。わからないけれどなんだか「死にたい」と思う。そのことについて考えてみる。

なかなか重たいスタートなのだが、「死にたい」と思ったとしても、果たしてそれを言えるのか、というのが序盤での問いである。言えないだろうな。家族、親友、配偶者など近しい人には尚更だろう。職場でもそんなこと言えない。
心配されすぎても困るし、へえ、私も死にたいよ、とか言われたら、サイアクだ。立ち直れないだろう。
でもいるんだよ、そういう人って。
体調悪いです、といえば、ああ私も、みたいなね。その人にはもう何も言わないと誓ったのだけれど。(余計につらくなっちゃうからね)
それは、無意識なのか、悪意なのかは分からない。後者ならまだ良い。怖いのは前者だ。
無意識の暴力っていうのは、本当に恐ろしいので、気をつけないといけない。僕もそうだ。誰かを知らない間に傷つけてしまっているかもしれない。でも、そうかもしれない、と思っておくのが大切なんだと思う。無意識に人を傷つける人を見分ける僕なりのとっておきの方法があるのだが、それを言うのはやめておく。それで傷つく人がいたら困るから。
日記にはなるべくその時に考えていたことを真空パックかつ急冷するように鮮度を保ちたいと思っている。なので、気分が落ち込んでいる時は、ものすごくつまらない日記になってしまうのを許してほしい。


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