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#4 幸せって何だろう?

幸せとは何かっていうことを考えようとすると、あまりに抽象的なため、うまくいかない。だからといってそれを放棄するわけにはいかない。おそらく99%の人は幸せになりたいと考えているだろうから。

幸せについて考えていく前に、まずはその対極にあるであろう、不幸せ、不幸とは何か、ということを考えたいと思う。
例えば仕事がうまくいかないとか、お金がないとか、親友に裏切られたとか、恋人に振られたとか、生きるのが疲れた、とかまあそういう状態にある人は、もしかすると不幸なのかもしれません。
死にたいとか、消えたいみたいな感情が燻っている状態は、もうかなり追い詰められているのかもしれません。一刻も早い対応を要します。

僕は、幸せに「なる」ということは原則不可能だと思っています。
こんなことを言ったら怒られるかもしれませんね。
でも、一度そうかもしれないと思ってみてください。
それはなぜかというと、幸せというものが何かよくわからないからです。
そして、幸せとは「幸せになった」と感じたとしてもそれがゴールではありません。
資格試験なんかは合格すれば資格を手にすることができますが、残念ながら幸せについてはそういうゴールがあるわけではない。いっそのこと幸せの免許皆伝みたいになことが起きれば幸せのようなことを感じることができるのかもしれませんが、どうしてもそれはなんだか胡散臭い。枠にはめることはできない。こうなれば幸せに到達した、という確かな実感があるわけではない。

僕たちを取り巻く状況、まあ環境とか、経済状況とか、交友関係とか、まあそういうものが未分化のままごったになっている場合がほとんどです。

僕は、幸せになる、ということはできないかもしれませんが、不幸な状況を一つずつ丁寧に取り除いていけば、幸せのようなものを感じ取れるようになるのではないかと思っています。
今の自分の心の中があるごちゃごちゃとした部屋のような状態になっていると考えてみる。心の中の取捨選択、断捨離、整理整頓、まあ何でもいいですがそれを敢行する。そしてそのなかに残った物を大切に育てる、磨いていく、そういうことが幸せ、ということなのかもしれないと考えています。

ということで、まずは自分の心の中をなんとか可視化してみる。
ノートに書き出してみるもよし、誰かに話してみるもよし、いろいろ方法はあると思いますが人に話す時は、くれぐれも注意してくださいね。人の愚痴を永遠と聞かされるのは、はっきりいって不幸です。地獄です。まあそういう話でお互い盛り上がれる関係なのであればうまくいくかもしれませんが、はっきり言って人の悪口をいうのって、汚染物質を振り撒いているようなものなんですよね。だから本当は避けて欲しい。お互いが汚染まみれになるだけですから。本当に。
もしもどうしても話したいという場合は、うまくバランスをとってください、その場合は相手の話も聞いてあげてね。幸せになるために他人を踏み台にしてはいけません。まあ当然のことですが。

ノートに書くのがまあ無難です。誰に見せる物ではないですから、環境、経済状況、精神状態、まあそんなことを書きまくっていく。

そして次はそれをどうすれば減少させることができるのかを考える。
切れるものは切ってしまえば良いし、そんな簡単ではないものも当然あると思います。その場合はその事象との距離感を考えてみる。
経済状況は人それぞれですが、収入がたくさんあれば良い、というわけではないのです。もちろんたくさん稼げる人はその能力に長けている。それは誇っても良い。だからと言って稼げない自分を卑下する必要もない。
経済状況に合わせた生活をすれば良いのです。

働けないという人もいるでしょう。僕も休職を経験したことがありますが、まあ辛かったです。
まあでも、収入が減ったらじゃあどうしましょうかね、とシフトできたのは良かったと思っています。冷凍うどんで凌いだり、大好きな本はちょっとがまんして、その分図書館の「新しく入った本」のコーナーをよく利用していました。まだほとんど借りられていない本はほぼ新品のようなものです。ただで(まあ税金は払っていますが)新刊が読める、というのはなかなか贅沢な時間の過ごし方でした。節約レシピを考案して、発信するのも楽しそうですね、僕は最近貧乏人のパスタ、というのにすごく興味があります。

人との付き合い方も変わりました。元来人付き合いはそんなに良くないのですが、基本職場の飲み会は適当な理由をつけて断りました。大声で大人数でカオスな状況になるのが耐えられなかったからです。飲み会で有意義なことが得られるかもしれない、という考えも一理あると思いますが、酔っ払いの言葉にどれほどの価値があるのでしょうか。

友達付き合いも、会いたい人としか会いません。まあそりゃそうか。

そうやって自分の中でモヤモヤすること、を不幸のタネ、なんていうとちょっと語弊があるかもしれませんが、そういう物を排除していく。それらが自分の中でどんどん肥大していったら、つらいです。

そうやっていった結果、僕の手元には、少ない友人、読書の時間、音楽をじっくり聞く時間、演奏する時間、文章を書く時間、そういってものが残っていきました。残した物を大事に育てていけば良いのです。その方がきっと楽しい。

こうやって「幸せのタネ」のようなものを少しずつ育てていく。
僕は、そろそろ仕事が疲れてきたので、なにか新しい生きたかを模索するそんな時期に差し掛かっています。

こういう時、手に職をつけるみたいなのがあるといいなって思います。
村上春樹『海辺のカフカ』の序盤で夜行バスで一緒になったお姉さんは、手に職をつけたくて美容師になった。美容師ならどこででも働ける。
ああ、たしかになるほどって思いましたね、今更。
なにか僕にもそういったものがほしいなと思う今日この頃です。

僕は、どうやら何かを教えることが昔から得意だったようで、塾のバイトではずいぶん重宝されました。

反対に作文は苦手でした。国語の成績はそんなに良くなかった、古文だけはめちゃくちゃ得意だったのですが、あれは話が面白かったからだなきっと。なのでいまはこうやって書くことの訓練をしているわけです。作文は苦手だったのは、好きなことが書けなかったから、だと僕は思っています。思ったことをただ羅列するくらいなら今の僕でも何とかできる。

さて、ここからです。僕は、作家になりたいのです。
なので、ちょいと高いハードルを超えていく訓練が必要です。
ただ、この時間が楽しいので、ある意味では、書いている瞬間は、僕は幸せであると言えるかもしれません。


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