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ブックレビュー『読書について』より「思索」ショウペンハウエル著

読書の功罪について考えることがある。
例えば「尊敬するあの先生の著書だから、書いてあることはすべて正しい」と思い込むことには大きな危険がはらんでいる。なぜなら、書き手を妄信した時点で、その読み手は「自分の頭で考えること」を放棄しているからだ。仮にその本に書かれていることが「100%真実」であったとしても、自分の頭で考えることを止めて、文章を一言一句鵜呑みにしてしまうべきではない。活字に目を通してインプットしたあと、しっかりと自分の中で咀嚼し、可能な限りバイアスを排除し、交通整理し、そのうえで自分の言葉でアウトプットできれば、単なる「鵜呑み」や「受け売り」ではなく、「自分の思索」に昇華できたことになるのだろう。
しかしそれが常に100%できているのかどうかと問われれば、正直にいって非常に心もとない。私自身、「あの先生の本だから、きっと正しいに違いない」と思っている節がある。「あのメディアの報道だから、きっとウソか悪意の切り取りに違いない」と決めつけるときもある。これらはいずれも「自分の頭で考えていない」し、真剣に調べることもしていない。
誰の言葉だったか失念したが、「自分の頭で考えることほどたいへんなことはない」という意味の文章を読んだことがある。たいへんだからこそ、安易に信じたり、安易に否定したりして、「楽をしよう」としているのだろう。しかしそれでは本当に学んだことにならないし、成長もできない。ただ「言葉のコレクション」が脳に少し溜まっただけのことだ。

以前、たまたま一冊の本を手に取った。書棚に長年眠っていたショウペンハウエルの『読書について』である。その冒頭部分に「思索」というタイトルのわずか15ページの文章があった。ここには「思索の重要性」と「読書の危険性」について、さまざまに言い方を変えて説明されていた。

読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思想誘導の務めをゆだねる。(中略)だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤を準備している。それで読書はただ自分の思想の泉が枯れた時のみ試みるべきで、事実、最もすぐれた頭脳の持ち主もやむなく読書にふけることもよく見うけられることであろう。しかしこれとは逆に本を手にする目的で、生き生きとした自らの思想を追放すれば、聖なる精神に対する叛逆罪である。

ショウペンハウエルは決して「読書をするな」と言っているわけではなく、「ただ本を手にする目的」で読書をしても、正しく思索していることにはならない、と警鐘を鳴らしているのだろう。そして自分の中にしっかりとした「羅針盤」を持てと忠告してくれているのだ。
次の指摘も面白い。

(学問がない人でも、常識や正しい判断、物事の分別がきちんとある。なぜなら)この人たちは経験と対話とわずかの読書で集めた乏しい知識を、いつも自分の考えで支配し統一しているのである。さて体系的な思想家もこの手続きをふむ。ただしいっそう大規模に行なう。つまり思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。つまり絶えず視界を拡大しながらも有機的組織を失わない壮大な洞察力によって、その材料を支配することができるのである。

まさに「読書とはかくあるべし」というところだろうか。読書によって得た大量の知識をすべて消化して、それを完全に支配できれば、もはやその読書は「他人の頭が考えた思想の詰め込み作業」ではなくなり、「自らの思索を深める作業の一環」という位置づけに格上げされている。

スマイルズの『自助論』にも近いことが書かれているので引用しておこう。

単なる知識の所有は、知恵や理解力の体得とはまったくの別物だ。知恵や理解力は、読書よりもはるかに高度な訓練を通じてのみ得られる。一方、読書から知識を吸収するのは、他人の思想をうのみにするようなもので、自分の考えを積極的に発展させようとする姿勢とは大違いだ。(スマイルズ『自助論』より)

私はこれからも本を読んで勉強を続けることになる。尊敬する先生の講習を受ける機会もあるかもしれないが、基本的には読書を通して自分を高めていくことが中心となる。きちんと意味のある勉強をして、自分を成長させていくためにも、読書の功罪を理解しておくことには、大きな意味があると考えている。

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