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私達は物質 物質なのにね

(⚠︎今回は人間の内臓の一部の写真が出ます。
グロテスクな物に耐性の無い方はそっとお戻り下さい。)








人間がどこで思考、行動、決断をしているか、皆さんは知っていますか?
明日の夕食をどうしようか、ココアが飲みたい気分なんだけどいややっぱ紅茶がいいんだよなでもなんにしろカフェイン摂りすぎたくないよな、色鉛筆の芯スッカスカなんだけど買いに行った方がいいかな、いつ死のうかな、そんな事を 休み無くず〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっと考え続けているバカみたいな場所、知ってますか?


暖かい心かな?








脳。
通常平均で1400gくらいの、数多の神経細胞(ニューロン)と脂、蛋白質で構成された臓器。
崩れやすく、素手でも簡単に潰せちゃいます。
(⚠︎人によっては閲覧注意です。)





チンパンジーの脳。我々と対して変わりありませんね。
出典:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/脳 より

我々の情緒は、ホルモン等の神経物質と電気信号の化学反応が起こした脳の作用によって生み出されています。
(私は脳科学に全く詳しくないので、間違った箇所等があればご指摘いただけますと幸いです…。)
豆腐みたいな、ぐずぐずの皺だらけの臓器に人生の
ロマンや哀愁を全て握られて、勝手に涙なんか流しちゃって生きています。
これってなんだか、凄く侮辱的で、虚しい事なんじゃないかと。
もちろん、臓器の果たす役割というものは大きいですし、長年の研究の上でようやっと解明されてきた科学の一分野であるという事は理解しています。
しかし、理解しているからこそ、なおさら虚しいんです。
空想に酔って愛や詩なんかを語ってみたところで、脳内物質が乱れたらあっという間におじゃんになります。
将来的には、脳科学と心理学は完全に融合して一つの
学問として確立されていると言われている程ですから、
そうなれば私達はロマンスの神様でもなんでもなく
「物質」だと突き付けられる事になるんです。
禅の世界には「人間本来糞袋(つべこべ言っても
俺ら結局クソの詰まった袋でしかねえんだからちゃんと生きろや みたいな意味です きたない)」という言葉がありますが、そんなものじゃありません。
もっとこう、強い虚無です。「人は死んだら土に還って、魂は無になる」どころじゃありません。
幸せに生きているつもりでも、「物質」が何かの間違いでめちゃくちゃにひしめいてるだけなんだなと。
考えすぎかもしれませんが、精神(部位で言うと大脳辺縁系辺り…らしい。)に作用する薬を飲み始め、その
効果を実感し始めてから、一層そう感じるようになりました。

「しんどいな…、でも薬を飲んで少しは回復した!嬉しいな。散歩にでも行こう。あ、あんな所にコンビニ出来たんだ。涼みがてらちょっと入ろう。うわ…なんだこの
新商品…ウケ狙いすぎだろ……まあ怖い物見たさもあるし買ったるか!インスタに上げたろ!」

この一連の動作で生まれた感情の粒の一つ一つが
視覚や聴覚から入った情報を「「「物質」」」として処理して生まれた物でしかない。

似たような事を考えた事がある方は多いかもしれません。あんな小さな臓器に、私達の人生の全てが握られているわけです。どれだけ嘆き悲しんでも、喜びに心震わせる瞬間があっても、「物質」。
悲しくなってきました。動物である事を忘れて、何か
高尚な概念か何かだと自分を誤認している、一種の驕りかもしれません。

かの天才アインシュタインの脳は切り分けられ、
いつの日かその頭脳の謎を解明する時まで、丁寧に保存されている、なんていう話もあります。
人間は物質として生きた功績を物質としてしか遺せないのか。情緒は錯覚で、見渡す限りは原子の塊と物質物質物質物質、で、いいんでしょうか。
下手に変なリアリズムに傾きすぎると、大抵ロクな事はありません。物質の私が、少し物質なりに考えてみようと思います。 少し見てやってください。


物質が物質として生み出した物質が増えていけば、物質は他の物質に淘汰されてしまってもおかしくはありません。余り物ですから。 ですが、私という個人は余り物の物質なのに、「人間」として定義されて、戸籍や名前なんて大層な概念を着せられて、何もかも買い与えられて、物質と物質で交流を取り、物質のおかげで悲しくなっています。
「定義」さえあれば私達は物質であるという現実から
束の間の間逃げる事が出来るのでしょうか?目を伏せているだけでしょうか。 「保護されるべき物質」
「蔑まれるべき物質」「何故か存在するが、さほど物質間の交流に支障をきたさないので無視されている物質」として札さえ付けてしまえば、私達は晴れて人間様の
仲間入りなわけなんでしょうか。じゃあ、今日から私の晩御飯のカニあんかけは人間です。私です。私に摂食
されて、各種アミノ酸に分解されて、筋肉や脂肪や皮下組織の一部等「物質」の集団に属する事が出来るので、
カニあんかけはめでたく私になれました。よかったネ!!


何が言いたいかというと、「役割」や「定義」さえ与えられれば、社会に存在する意味さえ見出せれば、物質でもなんでもいいんじゃないかという話です。
もちろんその物質の特性にもよりますがね。
人間という物質とバナナという物質はDNA構造が60%
同じとされていますが、それなら明日からバナナと
ときめきメモリアルしような、なんて言うわけにも
いきませんからね。 適材適所で物質は意味を定義されて「生きている」という事なんでしょうか。
ロボットも「言語を操り、ヒトと交流を図る事が出来る」「自らの動力で部位を動かせる」というヒトとの
共通項だけ見れば「ヒト」と定義できますね。
SFにありそうなアレですが、じゃあ魂はどこにあるんだよと。コンピュータ回路です。最近の物はかなり小型化されていたりなんかしますね。
技術がいずれ拡大して、宇宙のロマンも世界の果ても物質に定義された時に、いよいよ皆手を繋いで笑い合えるのでしょうか。シナプスも宇宙も植物も全て繋がって、同じ物質で感情を揺り動かされたりする日なんかが
いずれやってきたら、私はハレー彗星とサメ映画を
見ようと思っています。私は吹き飛ばされて物質として
「死」の状態になるでしょうがね。
それでは皆さん、完全深夜テンションの物質が書いた物質文章をここまで読んでくださりありがとうございました。物質なりに幸せに生きられる方法があれば是非ご連絡下さい。それでは良き物質ライフを!


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