文字では救えないことにどう向き合うか

先日、虐待現場に遭遇しました。
という書き出しにすると、物々しい感じになりますが、他にしっくりくる言葉が思いつきませんでした。

先日、仕事の休憩中に買い物に行こうと思い、職場を出た瞬間にフロア全体に響き渡るほどの怒鳴り声が聞こえてきました。

びっくりしながらも目的地に向かって歩いていくと、中国人のお母さんとお子さんが前に歩いており、お母さんがお子さんを怒鳴りつけていました。
私の母も中国人だったので、身に覚えのある叫ぶような怒鳴り方と言葉の雰囲気で背筋が凍りました。
具体的に何に怒鳴っているのかはわかりませんでしたが、お子さんはお母さんの顔も見ず、何も言葉を返さず、下を向いているだけ。
ヒートアップしていったお母さんは、自分の持っていたエコバックのようなものでお子さんを殴り始めました。

私は流石に止めなきゃ!と思ったのに、
「今声かけて休憩時間過ぎちゃったらどうしよう」
「仮に遅れて事情を説明して、上司に変な風に思われたらどうしよう」(上司はとてもいい人です。)
「「うちの教育に口出すな」って怒鳴られたらどうしよう」
「「エコバックだからけがはさせてない」とか言われたらどうしよう」
などと、声をかけない言い訳と、声をかけなきゃという焦りが頭の中で錯綜し、結局声をかけられませんでした。

腕を伸ばせば届く距離にいたのに、あと3歩早歩きすればチャンスはあったのに、ほんの1mに満たない距離の人さえも救えない自分が悔しくて、自分の無力さに落胆しました。

その光景を見てるだけでも本当に苦しかったのに、自分が傷つくことを恐れて救う選択をしませんでした。
周りの人もその親子の様子を見て、振り返ってはひそひそと話したりするだけでした。
エコバックのようなものとはいえ、殴られている本人からすれば「殴られている」のに。

私も小さいとき同じような経験をしたことがあります。
なぜ、みんな「ヤバイ」みたいな目でこちらを見るのに、助けてくれないのだろう。
私が反抗したってどうにもならないから、誰か止めてほしいとずっと思っていました。
中国人だから、文化が違うから、あの民族は我が強いから、しょうがないよ。と、言われたこともあるけれど、私には関係ないし、私の力ではどうにもならないから大人が介入してほしいと願っていました。
そんな風に思っていた、「ヤバイ」と思ったはずなのに、私は声をかけられませんでした。
ただただ情けなくて、ダサいと思いました。

人を殴ってはいけない

なんて当たり前のことが、まかり通らない世界がある。
メディアを通して伝えても、法が整備されていっても、伝わらない人には伝わらない。行為者であれ、傍観者であれ。
アカデミアから離れ、仕事を始めて、アカデミアで行われている研究は通用していないことばかりだと思うことが増えました。

でも、だから研究が無駄なんてことは思わないし、私の研究も無意味だったなんて思わないです。
文字を通して半径1mにいる人との関わり方に影響を与えられることができるのが学問の面白い部分だと思います。
その半径1mの人との関わりに影響を与えていくために、研究を大切にしたいと思うし、やはり研究を続けたいと思うようになりました。(ずっと思ってるけど。)

最後にかっこいいようなこと書いてるけど、結局私は学んだくせに動けなかった弱い人間です。悔しくて家に帰って思い出して泣くほどです。
でも、アカデミアを経て社会人をしているからこそ、文字や言葉ではないところでどれだけ働きかけられるかを諦めたくありません。
強くなるには時間かかるかもしれないですがもし次同じような場面に遭遇したら(遭遇しないに越したことはありませんが)弱くてもダサくてもいいから声をかけようと思います。

文字ではなく、人との関わりからも変えられることがたくさんあると信じて。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?