あの日


あと2日で、
東日本大震災からまる10年になる。

当時港町の小さな集落に住んでいて、
今も同じ場所あたりの高台に住んでいる。


3月11日、地震が起きた時
小学校で帰りの会をしていた。

急にグラッときて、避難訓練のように
自分の机の下に潜り、頭を守る

でも今までとは比にならないくらいの
大きくて、長くて、気持ち悪くなる揺れだった。
机の脚をグッと掴んでも、揺れで自分も
動いてしまう。
近くにいた友達は泣き叫んでいた私に
「大丈夫だから!大丈夫だから!!」
きっと自分も怖いはずなのに、
私に必死に声をかけてくれたのを
未だに覚えている。

まだ少し揺れている状態で
学校の校庭へとみんなで向かった。
廊下にはホコリが沢山落ちていて、
揺れの余韻で自分が揺れているのか
はたまたまだ少し揺れているのか
区別がつかない状態で外に出た。

外は冷えていて、
少したって先生たちが生徒の上着を
全員分持って来てくれた。

学校は町の高台の方にあった


津波警報がなっていたと思う。
校庭の中心あたりに生徒と先生が居て、
町の大人たち、生徒の親などが
校庭のフェンスから町を見ていた時だった。

「津波来たぞー!!逃げろー!!」

突然言われたその言葉に
列も年齢も性別も何も関係なしに、
学校より上にあった町の体育館に
無我夢中で駆け上がった。

怖くて泣きながら走った。
すぐ近くを、確か小学校6年生位の
仲の良かったお姉さんが走っていて、
泣いていた私の手を引っ張って
一緒に走ってくれた。

より高いところに避難して、
また学年でまとまった。
たまたま父親が近くで仕事をしていて、
地震が起きてすぐに学校に来てくれて、
そばに居てくれた。

東日本大震災の数日前にも
大きい地震があって、トラウマになっていた。
震災の時は怖くて怖くて、
嘔吐したのを覚えている。
その時も友人がそばに居てくれた。

上からブルーシートを被り雪を防いで、
その時はガソリンなどの匂いがしていて
一体全体どうなっているのだろうと
子供ながらに思っていた。

安全が確認された町の体育館に
全員で避難した。
その日の夜は、父親と2人で、父親の会社の車で
一晩を明かすことになった。

「もし、お母さんとお兄ちゃんと、お爺さんとお婆さんが死んでいたら、二人で頑張って生きていこうね」

確か、夜に車内でこんな事を父親は言っていた。
幸いな事に家族全員が無事だった。

夜が明けて

父親と2人で小学校より上にあった
中学校へと向かった。
見晴らしが良くて、町を上から眺めることが出来た。

中学校から見た町は、
なんとも言えない状態だった。

瓦礫の山。
お店があった場所すらも、
理解することが出来ない状態。

その後また町の体育館に戻って行こうとした時、
私はある光景を目にした。

津波でぐちゃぐちゃになった家の前に
家族がたっていた。
そのうちの一人の女性が、
その家を見て泣き叫んでいたのを覚えている。


数日経って、お爺さん、お婆さん、お兄ちゃんの
安否が確認できて、
3人がいる避難所へ行くことになった。
仕事の関係で父親とは離れ離れになってしまい、
その時はすごく辛くて寂しかった。

3人がいる避難所に向かうのに、
瓦礫の海となった町をひたすら歩いた。

「死体見つけたぞー!」

数メートル離れた場所から
知らないおじさんがそう言った。
実際にそのご遺体を見た訳ではなかったが
その言葉だけでゾッとした。

ずっと歩いて、
高い位置にある道路を使っていたから
その場所についてからは車で移動した。

避難所について、
3人と再会して、
本当に生きていたことが嬉しかった。

後日父親も、母親の実家に向かったそうで、
たまたま母親もその時実家に向かっていて、
再開することができた。

避難所で生活をして、
一時転校をして、
仮説住宅で生活をして、
数年前に自宅を再建して、
今は落ち着いて暮らせている。

“10年という節目”

よく耳にするが、節目ってなんだろう?
いつだって報道されると被災地と呼ばれる。
私は被災者と呼ばれる。
間違ってはいない。だって事実だから。

この10年間、何か特別なことをした訳でもない。

避難所で皆とかわりばんこにご飯を作って、
小さいながらに避難所を駆け回って遊んだり、
寝て、起きてを繰り返した。

学校もないから、母親の職場にお世話になって、
母親と2人で、どのくらいかは忘れたけど
ホテルで生活をした事もあった。

仮設住宅ができるまで、
母親の実家にお世話にもなった。
だいたい2ヶ月くらいだっただろうか、
通ったことの無い小学校に通った。
たまたま通っていた保育園が母親の実家の方だったから、その時の友人が居て、
でも初めて知り合った子とも沢山遊んだ。

仮設住宅が出来て、
お盆の辺りに地元に戻ってきた。
横並びで、狭くて、2部屋しかなくて。
でも別に文句はなかった。
この仮設がこれから私の家になるのだから。
4年~5年、そこで暮らした。

当時、ボランティアできてくれていた人たちと、
今でもたまにあったりする。
最近よく言われるのが

「大人になったね」

初めてあったのが11歳くらい。
今年で私は年齢的に大人の仲間入りをする。

生きながらえたからこそ、
出来ることがあると思う。


10年を通して、
私はそう思うようになった。

その時の気持ち、その時の暮らし、
その時の状態、その時の行動。

語り告げるものがあるのだとしたら、
こうして書いたり、話したり、
やれる事はやりたいと、そう思う。

復興っは進んだ。
町だって発展した。


町が復興を遂げたところで、
被災した人の心の傷を癒す事は出来ない。

町的にも気持ち的にも、
前向きに復興したと言える人は居る。
でもそれと同じくらい、
気持ちは復興しないと言う人もいる。

絶対に、何があっても、
この気持ちは埋まらないと言う人もいる。

きっと次の課題は、
被災者と呼ばれる私たちの

『心のケア』

なんだと思う。
たくさんの人の声を聞いたから、そう思った。

身内をなくした人が沢山いて、
実際私のお婆さんの兄妹とその奥さんは、
震災で亡くなられて、未だに見つかっていない。

これからどう生きて、

この東日本大震災という現実を、
どうやって語り継いでいくか。

今覚えていて書き綴っていても
いつか忘れてしまうことが怖くて、
noteに当時の経験を長々と綴った。

こんな事を書いている私に、
一体何が出来るのだろう。
10年目にして、私が抱えた悩みです。

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