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「平和主義」の内実

今から30年近く前、中学の時のクラスに「学級目標」というのがあり、そこに掲げられていたのは「平和主義」だった。クラスの誰かの考案だったと思ったがそんなことはもう覚えていない。「平和」とは一般的にはもちろん国家間に戦争が起きてない状態を指している言葉であり、それを学校に置き換えれば喧嘩や暴力が起きてない状態といったとこだろう。もちろんそれ自体に疑義があるわけではないものの、当時は90年代で80年代的な校内暴力とかツッパリとかはすでにダサい文化になりつつあり、特段差し迫って平和(反校内暴力)を訴えなければならないという感じでもなかった。

当時の問題はむしろハデな暴力騒ぎよりも陰湿化しつつあったイジメで、当時のクラスでも自分を含め何人かがやられる側にいたと記憶している。ハデな暴力はある意味わかりやすく教師も気づきやすいが、(陰湿な)イジメというのは癌のように気づかれにくく進行し、暴力を伴わない分やられる側の「痛み」を想像しづらく、何よりやってる側に加害の自覚も芽生えにくい。自分たちは遊んでただけ、あいつの被害妄想だ、クラスにイジメはありませんでした、という結論に結局収束してしまい、「暴力」は起きてないので「クラスは平和です」となる。ざっくりこれが「平和主義」の内実である。

そういう意味でイジメられた者が、虐げられた者が声を上げ戦うことは「平和」を乱すかもしれない。傍観者たちは「平和」を乱されるのは迷惑だから「いちいち声を上げるな」と安全地帯から言うだろう。さらに優等生の傍観者は「イジメられる側にも原因あり」と知的ぶって言うかもしれない。しかしそういう相対主義は加害側に罪の意識が生まれにくくどこまでも他人事で、例えばイジメが原因で自殺した子の葬式で加害側の子が笑ってたりなんてこともあったりする。そういえば息子が小1のときの他クラスの担任が最初の挨拶で、ふつうなら「喧嘩はしてはいけません」的に言うだろうとこを「どんどん喧嘩してください」みたいに発言し「そこからお互いを知る事につながります」みたいに言っていた。

「平和主義」には反するだろうがこれは正しいと思う。「イジメを無くしたい」とは誰もが願うだろうが、暴力を伴わない可視化されにくい「侵略」に抗うのは「平和」には反することだろう。声なき声を圧殺して「平和」を保守するのと「平和」が乱れてでも声を上げるのと、どっちを選ぶべきなのかは時処位で考えてみる必要があるかもしれない。

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