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新年言志 真我の目覚め お寺でお書き初めをしたよ。

年末に現状からとにかく抜け出したくて、しんどい時期があった。

ストレスがあるとき、私は食べることでなんにも考えられなくして乗り切ろうとするパターンがある。

そして、食べ物を捨てることや、それを見るのが辛いから、無理に食べてしまうこともある。

あとはすこし残ってるのがなんだか気持ち悪くて、食べきってスッキリさせたくて食べたり。

佐渡は美味しいものに溢れているし、
仕事は食関係だしで
必要以上に食べるトリガーにはこと欠かない。

そして芋もち・干し芋の加工過程で出る食品ロスを目の欲しがるままにおやつに食べていたら、冬眠前の熊のようになった
(年末好きな人や家族にこの状態で会いたくないな…)

信頼している人に、そんな話をしたら

「人間には偽我と真我があって
努力、自分を整える方向が真我
堕落が偽我 楽をしようとする
2つあるのが人間だから、悪いことじゃないし
真我は出しづらいもの。
どっちもあっていいんだけど
いまめぐちゃんは偽我の声に負けちゃってる。
冬眠の時期だからガツガツ頑張らなくていいけど、いま偽我が出てるなって気づくことだね。」

と話してくれた。

本当に食べたいわけじゃないのに、食べてしまうとか、
純粋な気持ちでそこに参加できないのに、集まりに行こうとするとか、
早起きしたいのに、布団から出られないとか、

偽我が強くなるのは
本当は創造したいのに、その声を無視したり
本当はピンときた所に行って、会いたい人がいるのに、家や今の場所に留まろうとしたり
本当は整えることをしたいのに、何かを足そうとか詰め込もうとしたりしてるときなんだよな。
あと、嫌だな、悲しいなって感じたのにヘラヘラしてるときとか、全然納得してないのに飲み込んだふりをしてるときとか。

だから、描きたいものを描いているときや
突き動かされるように旅をしているとき
悲しいって泣けたときは
あんまりお腹が空かないし
疲れないし
必要な睡眠時間もかなり短くなる。


と、熊はねぐらから出てきたのでした。

新しいものを迎えにいくんじゃなくて、
眠っていたわたしに起きてもらう。

怖がっている自分にこまめに気づいて、共感しながらも淡々とやってみること。

怖がって後回しにしていると、ずっと怖いまま。目を逸らすと、視野の外でそれは肥大化してゆく。
羨ましいあの人の美しい字も。
諦めた夢も。
放っておいた仕事も。
行きたかった場所も。

怖がりつつもエイヤ、とやると
もう怖くない、
少なくとも想像していたよりは。

部屋の隅の服がお化けにみえてる子どもに
パチンと電気をつけてやるような。
ちゃんと見たら、怖くないよ。

怖いことに向き合うこと、取り組むことは、
そんな怖がりな自分への本当の意味での愛かもしれない。

そんな気持ちで、1月2日にお書き初めをして
真我の目覚め
と書いた。


純粋さ
本物さへの挑戦
整えること

学生時代から、まっすぐ縦に下ろす線に苦手意識があったから
真も目も覚もかかないで済ませたかった。
下手なことをバレたくない

でも、そう思っている自分にきづいた上で
あえてそのまま書いてみた。
不思議なことに、思ったより縦線はななめにならなかった。


大抵一枚目が一番よく書けるやつ、真ん中は友達のお書き初め。

友達はじゃがいもみたいだな、と言った。
インカのめざめじゃないのよ

真我の声も、偽我の声も、どちらも聞きつつ
淡々と真我をえらぶことを実験する年に。

筆とも親しむようにしたい。


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