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夏は真夜中、朽ちない梔子のプールで泳ぐ

夏の暗闇に白く浮かぶ梔子。

肉厚の花びらを見つけたときには既に、鼻も口も眼も皮膚も、バニラビーンズをたっぷりと混ぜ込んだ濃厚な生クリームの中に沈み込んでいる。

公園の生垣が梔子なら、傍を歩くだけで、甘い濃霧の中に迷い込むことになる。

三大香木の梔子の匂いは重く甘い。

この快楽をなぜ、どの家々、どの道々、どの庭々でも、夏の中に、ふんだんに振舞わないのか。

不思議で仕方がなかったのだが、町角で出会えないのには、やはりそれなりの理由があるらしい。

一つには、余りの蜜の甘さに蟻が集るので、人家の周囲に向かないとされるから。
または、「口無し」の縁起の悪さで、嫁の口無し、婿の口無し、就職の口無しとあらゆる口が無くなるのではないかと恐れるから。
もしくは、見事な分厚い純白の花びらが、あっという間に無残に枯れ腐り、見すぼらしいから。

どれも分かる。そんな理由が一つでもあれば、梔子が選ばれなくなってしまうのも、よく分かる。

だからこそ、梔子に出会うと、ああ、と思う。

ああ、これを選んだ人は泳いだのだ。

梔子から湧いて、街路に滾々と注いでいる匂いのプール。
南国の果実を集めて発酵させた真夜中のプール。
泳ぎ渡ると、バニラクリームの波が寄せてくる。

あれを浴びたあとで、梔子の鉢植えを軒先に置かないとは、どうにも考えにくいのだ。

蟻は、確かに悩ましいかもしれない。けれども、良い就職口の無さを、梔子のせいにするくらいなら経済学を学びたい。風説のせいで逃すには口惜しい梔子である。

三大香木の沈丁花と金木犀は、澄みきった秋冬の空気という好条件の中で匂うことができる。

だが、梔子は、夜店の焦げた醤油や風に舞うザラメの綿菓子、家々が開け放った窓のカレー、風呂場のシャンプー、夜遅くまで賑わう酒場のビールジョッキの泡が弾けて漂う夏の夜に、浸透せねばならないのである。

あっという間に茶色に萎びて枯れきってしまうほど稠密に、全精力で匂う梔子の重い甘さは、生命力旺盛な夏の夜を切り拓くためにあるのだろう。

希少価値があるからこそ、町角で出会うと無性に嬉しい、初夏の芳醇、梔子。



追伸
将棋盤の脚は、梔子だそうだ。
将棋のように息を飲んで、無心に無口であることが、望まれる場もある。
梔子の縁起の良さも考えてみたい。
口を無くされるのは悲劇だが、無口を選べることは幸福であるはずだから。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。