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遠い太鼓に誘われて

「遠い太鼓に誘われて
 私は長い旅に出た」
村上春樹著「遠い太鼓」の冒頭に記されているトルコの古い歌がある。

書棚を眺めていたら、そんな一節を思い出した。
で、不意に斜め右上あたりに疑問が浮かんだ。

「長い旅」とは、どのくらいを言うのだろうか?
10年?
3年?
1ヶ月と16日?
1週間?
3泊4日??
5時間?
その旅の内容やその人の思いでそれは違うのだろう。
きっと時間という単位の問題ではないのだ。

初めての一人旅と呼べる旅に出たのは、18の時だった。

どこまで?
いつまで?
何を得るまで?

全くそんなことは考えてなかった。

いつまでも。
どこまでも。
なんでも。

「ちょっと南に行ってきます」と言い残して、
たった四ヶ月程の旅。赤道近くまで行った。
もう35年ほども前の話だ。

とにかく、貪欲だった。

旅の出ようとした理由は、いろいろありすぎてひと言では語れないが、
青臭いもので、すでにどこかの犬に喰われてしまった。
思い出すこともない。
今では「自分捜しの旅」と言われそうだが、そんなモンではない。
道に迷ったとか、
ここじゃないどこかへ行こうとか、
そんな哲学的な話ではない。
どちらかというと、物理学的であり、力学的である。

ひたすら南へ!
地図で言うなら「下へ!自由落下!」
そんな単純なことだった。

18の世間知らずで恥知らずの若造が、旅をして、
いろんなトコを見た。
いろんなヒトに逢った。
いろんなモノを食べて飲のんだ。
そして、いろいろなコトを理解しようと考えた。

とにかく、孤独だった。

何日も会話もしなかったこともあった。
何日か水しか飲めなかったこともあった。
熱にうなされたこともあった。
泣いたこともあった。
酔っぱらって叫んで喧嘩したこともあった。
それでも、その孤独が、淋しいモノだとは思わなかった。
その孤独すら、僕にとっては刺激的だった。
そして、誰かと言葉を交わすことがさらに素敵なことだとも思えた。

デジカメもなければ、携帯も、パソコンも、スマホもない時代だった。
出逢った人とは、もう二度と会えないという思いはあった。
ろくすっぽ住所交換はしなかったし、本名すら知らない人ばかりだっ。
カメラは持っていたものの、途中でフィルムが買えなくなった。
誰かと一緒に撮った写真は皆無に等しかった。
それに、喰うモノを買う金に困って、
途中でそのカメラ(OLYMPUS-PEN)を売ってしまった。
記憶は、形あるモノではなく胸に刻まれた。
そして、昔の写真のように色褪せていき、消えていく。
なんかそれでいいような気がする。

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「遠い太鼓」の最後にこう書かれていた。
「そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。」

長いこと旅らしい旅はしていないが、
今なお旅の途中で、ここで働きながら長期滞在している感じである。
「日本一周」と掲げて旅をしている若者を時折見るが、
僕は世界一周の途中なんだよ。と、心の中で対抗する。
そう、18で独り旅に出て、今だの旅の途中なんだ。
いつかまたここを離れるときが来るだろうが、
今すぐ旅立とうという気にもならない。
なぜなら、あの頃と僕は同じように
ここで、
いろんなトコを見て、
いろんなヒトに逢って、
いろんなモノを食べて、飲のんで、
そして、いろいろなコトを理解しようと考えている。
僕は未だ満足することない旅人のようにここにいて、
未だ何も理解できず、
遠くから響いてくる太鼓の音に
耳を澄ませて楽しんでいる。

そう、
今でも、
遠くで太鼓が鳴り響いている。

どこからだろうか?
誰が叩いているのだろうか?
何の太鼓だろうか?

行きたいとこは、いくらでもある。
会ってみたい人は、いくらでもいる。
知りたいことは、いくらでもある。

僕の旅は、まだ続いている。

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