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旅をすること、されること

職場のあたりに観光客が来るようになった。別に新しく何かができたわけでもないけれど、昔からそこにあったものを街のシンボルと観光客が認識して、日本・東京都訪れた記念に写真を撮って行く。

街のシンボルというのは東京タワーだ。わかりやすいでしょ?

私も今月、旅行をしてきたところ。行った先の建物の写真を撮ったし、もしかしたら地元の人が守っているルールからはみ出た行動をしてしまっているかもしれない。
地元の人の生活が垣間見える瞬間をすごく面白がっているし、なによりそうして訪ねた先を「素晴らしい」とか「さびれている」とか、心の中で評価を下していることも多い。たとえ「素晴らしい」がその旅の9割だったにしても。

観光というのは、残酷なものだと思う。
自分のお金で旅行するようになって以前にましてそう思うようになり、年を重ねて自分の発言に力をこめられるようになってよりそう思うようになり、自分の職場のまわりを文化や生活の文脈の重なりの少ない人たちに観光されるようになってもっとそう思うようになった。
これで自分の住んでいるところの周りが観光地となった時には、もっともっとこの残酷さを感じることになるのだろう。

私は時々観光客になる。その土地でしか見られないもの、というよりも「私の日常で見られないもの」を見ることを期待して、いつもと違う食事を食べることを期待して、いつもと違う行動をとり、日ごろは神社もお寺も通わないくせにいつも違って神様を訪ねて、訪ねた先でいつもと違う音楽がかかっているといいなと思い、いつもと違う言葉を期待する。だから、外国で流暢な日本語で対応されるとがっかりするし、国内で地元の言い回しを聞くことができなくても内心期待外れだと思っている。
こういう自分を粗野だと思う。自分の非日常を他人の日常に身勝手に期待しているのだから。こういう欲望はテーマパークで解消すればいいのに、私はテーマパークに興味がない。
お膳立てされたものじゃなくて「本物」が見たいという、あきれるような意地汚さがある。

街で見かける観光客を見かけると、ルールが理解できないことも、羽目を外していることも含めて、そんなものだろうとは思える。
その楽しさは私も違う土地で体験している。「だから」なのか「なのに」なのかわからないけれど、私は自分の日常を観光する旅行者たちを好きになれない。

きっと「私の街」にこれからもっと観光客は増えていく。
私は、彼らと私をどんな風に見つめるのだろう。

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