遠くなる

 今夜もまた遅くなった。
 深夜の道をトボトボと歩く。

「会社の近くに越したらいいんじゃないか?   
 朝は遅くまで寝られるし、夜は趣味の時間がとれる。男の独り身なんだから、気軽に越せばいいさ」

 仕事だけが人生じゃないんだ、と引っ越しを後押ししてくれた同僚は、私が今のアパートに越すなり、更に多くの仕事を押し付けてくるようになった。
 おかげで今日も深夜帰宅だ。
 街灯が寂しく照らす道は、いやに長く感じられる。足取りが重いからだろう。街灯と街灯の間の距離すら遠く感じる。

「ああ、そうなのぉ。良かったねえ、これからは会社が遠くなるねえ」
 超高齢の大家のおばあさんは、だいぶ認知が危ういようだった。
「いえ、近くなるんですよ」
「うんうん。遠くなるよ、良かったねえ」
「いや、だから」
「家ってのは、帰るためにあるからねえ。遠いといいよねえ」
「あの……」
「良かったねえ」
 何度訂正してもわかってもらえない。仕方なく「良かったです」と、笑顔で返しておいた。

 次の街灯まで、まだだいぶある。顔を上げれば、白い光が等間隔でずっと向こうまで続いているのが見える。
 こんなに長い道だったろうか?
 トボトボと足を進める。
 さっきの街灯を通り過ぎてから、どれくらい経ったろう? 5分? 10分? 一時間は過ぎたろうか。
 こんなに遠くては、アパートに辿り着くのはいつになるかわからない。
 毎晩毎晩、アパートまでの道が遠くなっているように感じる。
 トボトボと歩く。
『良かったねえ、会社が遠くなるねえ』
 大家のおばあさんの声が耳の奥で響く。
 次の街灯は、まだずっと遠い。アパートも遠い。きっと、この道は、明日の朝まで辿り着かないのだろう。
『遠くなるねえ、良かったねえ』
 こんなに遠くては、もはや会社にも辿り着けはしまい。
『良かったねえ、良かったねえ』
 亡くなった母に似た、慈愛の笑顔。
「良かったです」 
 私は小さく呟いた。
 そして、暗い道をトボトボと歩き続ける。


 

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