リラックスアプリ
Aさんが、そのアプリを知ったのは、仲の良い友人からだった。
Aさんの高校の同級生であるBさんは、ファッションや美容に詳しい。常にアンテナを張り巡らせ、多方面から最新の情報を仕入れている。
そんな彼女が、ここしばらく興味をもっているのが、ネット上に多くあるリラックスアプリらしい。
心身の健康を促進するためのリラックスアプリ。フィットネス、マインドフルネス、癒やされる動物画像、睡眠導入音。身体と精神を癒やすためのアプリは多岐にわたる。
Bさんは、そんなアプリを日々試し、その効果を友人たちに報告してくれていた。
そして、なかでも特にいち押しだと勧めてきたのが、そのアプリだった。
そのアプリは、美容や健康界隈ですら、あまり有名ではないらしい。しかし、ネット上の一部には熱狂的な支持者がいる。そして、その数は日毎に増えているらしい。なんでも一度使用すると手放せなくなると評判だそうだ。
なんだか怪しいアプリだ、とAさんは思った。しかし、そんな反応は予想済みだとばかりにBさんは笑った。
「別に全然怪しくないよ。だって、何もしないし、何も起きないもん」
デバイスにアプリをインストールし、開く。やることはそれだけだという。
そして、アプリ自体も特に何もしない。
説明文からすると、どうも雨音や風の音、焚き火の音などの、リラックスする環境音を聴くような類のアプリではあるらしい。が、はっきりしない。
通常は詳しく書かれているはずの説明文が極端に短く、全く説明になっていない。ただ「アプリを開く」「そのまま待つ」「それで終了」というような簡素な文が数行あるだけ。「聴いて下さい。吸います」など、要領を得ない文もある。開発元もよく分からない企業か何か。しかし「聴いて下さい」と書いてあるので、何らかの音を聴くのだろうと推測される。が、断言は出来ない。
何故なら、そのアプリは無音だからだ。
アプリを起動する。すると、真っ白な画面がディスプレイに広がる。そして、無音。ひたすらに静寂が続く。そのまま一分ほど。それで全て終わりだそうだ。
一分後には、不思議なほど心身が楽になっているという。
どんなに疲れてても嘘みたいに体が元気になるし、悲しいことがあっても一分後にはハッピーだよ、とBさんに詰め寄るように勧められ、Aさんもそのアプリをダウンロードした。
ただ、しばらくはそのまま放置していた。なんとなく使う気になれなかったのだ。だがある時、とても落ち込む出来事があり、Aさんは初めてそのアプリを起動してみた。
アプリのアイコンをタップする。話に聞いた通り、スマホの画面が真っ白になる。なんの文字も絵もない。音もしない。ただ白い画面が映っているだけだ。
――これで何か変わるの?
半信半疑で白い画面を見続けるAさん。
一分間、本当に何の字も音も出ずに、ただ白い画面を前にするだけで終わった。
意味がわからない、とアプリを終了したAさん。と、その時、異変に気付いた。
心が軽い。さっきまで垂れ込める暗雲のように重く沈んでいた心が、重石を外したように軽くなっている。浮き立つような気分。そして、青空のように澄みきった爽快感。悩んでいた事柄が、今では簡単に解決出来るように感じられる。悲しみも後悔もきれいに消え、ただ前向きな気分だけが湧き上がってくる。身も心も洗われたようだ。
これ、凄い――!
驚きのまま、Aさんは床についた。
きっと悩んで眠れない。そう思っていたその夜は、夢も見ないほどの安眠だった。
それから度々、Aさんはアプリを使用するようになった。
気分が沈むと、アプリを開く。一分後には、鼻歌が出るほど爽快になっている。また、体が疲れた時も使うようになった。体育の授業で疲れ切った時、特に苦手な水泳のあとは体にも心にも覿面だ。夜更かしが過ぎて睡眠不足の朝。いつでも一分すれば、たっぷり熟睡した後のように快調になった。
心身が常に健康で、毎日が充実している。
気が付くと、Aさんは日に何十回もアプリを開くようになっていた。
そんなある日のこと。
その夜も気分よくベッドに入ったAさん。部屋の電気を消し、寝る体勢になりながら、習慣でスマホのアプリを開いた。目を閉じ、半ばまどろみながら一分待つ、またはそのまま寝落ちするつもりだった。
瞼の裏にスマホのぼんやりとした光だけが映る。段々と意識が薄れていく。
――だい。
囁く声が聞こえた。
え? と思った。
――ちょうだい。
か細い女の声が、すぐ間近で繰り返した。
Aさんは目を開いた。すぐ前にスマホの真っ白な画面が光っている。
――ちょうだい。ねぇ、ちょうだい。
真っ白な画面の向こうから、かすかな囁き声が繰り返す。無音の部屋のなか、耳を済ませて集中し、やっと聞き取れるほどの細い声だ。
Aさんは画面を凝視した。
――ちょうだい。ね、ちょうだい。あなたの――ちょうだいよ。
瞬間、ふっと体が軽くなった。心が晴れ晴れする。いつものアプリの回復効果だ。
しかし、体が軽くなる一瞬、Aさんは感じた。体の中から何かが抜けていった。確かに、見えない何かがスマホの方に引っ張られていった。あの声によって何かが抜き取られた。
「聴いて下さい。吸います」。頭の中にアプリの説明文の一節が蘇った。
――吸われた? でも、何を?
Aさんは白い画面の奥を見つめようとした。画面は、ただのっぺりと白いだけだ。もう何も聞こえない。
――今までも何かが吸われてたんだろうか。何十回も、何百回も。
不意にゾッとして、Aさんは急いでアプリを閉じた。
以降、Aさんはアプリを使うのを止めた。
Bさんや友人たちは今もアプリを使っている。もう二十四時間アプリを開きっ放しにしたいよーと笑う彼女たちは、肌もつやつやで笑顔が弾けるようだ。見た目に磨きがかかり、いつも明るく元気な彼女たちは、クラス内どころか他のクラスや先生たちにまで評判が高まっている。
最近、Bさんは体重が減ってきたと喜んでいる。甘い物が好きで思うようにダイエットが進まないとずっと悩んできた彼女だが、ここしばらくは面白いように体重が減るという。ついつい食べ過ぎても大丈夫なんだよね! と笑う彼女は、今日も溌剌と美しい。
ただ、Aさんはもうあのアプリを使うことはないという。
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