屋久島の深い静かな森の宿で語られたこと:第八夜
「最近、仕事はどうだ?」
私は、思わず黙ってしまった。黒ひげBarに入るなりマスターにこう聞かれ、しばし返す言葉が見つからなかった。
事業構想大学院を卒業して以降、従来勤務している職場での業務はむしろ充実感を増していた。部下のマネジメントやモチベーションの維持も以前よりはできるようになり、また、自分が関わる各プロジェクトの形成では、大学院で学んだことも(部分的にではあるにせよ)活かして、少しずつではあるが、従来できていなかったこと、こういうことをやってみたいと思っていたことに着手できるようになってきた感覚があった。
その一方で、大学院で構想した事業は全く進んでおらず、停滞している。
卒業後、ビジコンに一度応募したものの、書類で不合格だった。事業に関係しそうな人・企業との接点は持ち続け、一度転職の話も頂いた。その企業で働きつつ、私が構想した事業の準備をしてみたらどうだ、というご提案だった。だが話し合いの結果、成立はしなかった。
転職する限りはそこで勤め上げて欲しいと考えるその企業側の考えと、いずれは自分で経営したいという私との食い違いが原因であった。その後、新たなアクションを取れずにいた。
もともとすぐに事業を起こせるとは思ってはいなかった。仕事も上向きではある。不満が募りに募っている訳でもない。ただ、事業が全く進んでいないことに大きな焦りを感じていた。そのくせアクションはできていない状態で、正直、この日、マスターに何を相談すればよいのかすら、明確ではなかった。その位に悶々とした状態であった。これが今後も続くことは良くないと思い、その日は黒ひげBarに向かったのだった。
「仕事は悪くはないです。ただ、情けないことに事業は全く進んでいません。」
少しの間をおいてこう答えた私に、マスターは
「今が良い時期とは限らない。事業はタイミングだ。それを逃さないことが大事だよ。」
マスターは、穏やかに、その昔、「裏外交官」と言われた途上国での新規事業の仕事の経験談を話してくれた。
日本と途上国の両方の政府の間に入り、両者それぞれに「本音と建て前」がある中で、如何に本音を聞き出すか、そのためにどれほど必死に準備をしてきたか、どれほど本質を捉えられるか。そしてタイミングを見誤らずに、あらゆる関係者に何度も何度も提案をして事業を磨き続けた結果、事業として成立し、日本と途上国の両方の政府から感謝され、そしてその後も持続する事業になったということである。
仕事とは、どこまでやるのが正解なのか?本当に面白い仕事とは何なのか?本質、貢献、社会的インパクト、感謝。これらを感じられるのが良い仕事であり、生き甲斐になるのであろう。この領域には、もう「働き方改革」という言葉は存在しないのかもしれない。やはり足掻き続けることである。そんなことを感じた。
そして、私の焦りを見透かすようにマスターは言った。
「人が既に着目していること、やろうとしていることは、もう新規事業ではない。人が考え付いていないことをやるんだ。そのためにも、天の邪鬼で我が儘であれ。そして、着想した後は、どうやって実現するか、その戦略が最も重要なのである。とはいえ、万事塞翁が馬。うまくいかないこともあるし、それが後々につながることもある。焦る必要はない。
いずれ「がっ」と動く時がきっと来る。そこを逃さないようにしなさい。
マスターの言葉は終始穏やかだった。
バーの帰り道、車窓から見える夜景の光は、少しだけ輪郭が明確になったような気がした。
4月25日
江戸川
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