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第七話「温泉と湯治、『まだ』と『もう』」

僕は、温泉によく行く。

屋久島にも幾つか温泉があり、鹿児島県は日本第二位の源泉数を誇る「温泉県」でもある。 大体、マラソンやトレランの大会後に泊まる宿は、できる限り温泉宿を取るようにしている。よって、日本全国の温泉に泊まってもいるのだ。

その中で、北海道の「サロマ湖ウルトラマラソン」の後によく寄ったのが、「茅沼温泉」で、湿原の中の温泉は、その熱い湯に浸かることで、疲れが取れたものだ。

しかし、最近は、帯広の「かんの温泉」に泊まることも多い。「かんの温泉」の効用は、メイさんの痛んでいる、左脚の付け根の痛みが取れることもあり、常呂町から帯広まで足を伸ばして帰ることにしていた。

さて、秋田、岩手もまた、温泉の宝庫である。

冬の景色の風物詩となっている「乳頭温泉」の『鶴の湯』をはじめ、多々あるのだが、今回宿泊した八幡平近くの「玉川温泉」に行って考えさせられることがあった。 

それは「湯治」ということである。

「温泉」と「湯治」は切っても切れない関係にあるが、改めて「湯治」について考えてみたい。

本当に体に痛みや病気がある人が救いを求めて、数週間、時に数ヶ月を湯治場で過ごす。 ここ「玉川温泉」は、日本では唯一の「北投石」があるところで、天然記念物にもなっている。「北投石」とは、台湾の「北投温泉」にある石でラジウム線を強く含んでいる。僕も「北投温泉」には、昔行ったことがあったが、当時は戦前に作られた街のため、日本風の古い温泉宿がありノスタルジーに浸れるとの思いで出かけたのだが、その薬効については記憶は無い。

さて「玉川温泉」には、日本中から癒しを求めて、人が集まってくる。御座を「北投石」のある地べたに敷いて、日傘を顔にかけながら、毛布をかけて寝て過ごすのである。通常の治療では、治らない人達の救いの地なのであろう。 そんな中を、単なる旅人ととして、紛れ込んでいる自分に違和感を覚え「湯治」とは何かを、もう一度考えてみたくなったのだ。


今回、「いわて銀河ウルトラマラソン」を走ったのであるが、メイさんは本当にゴールした時に、足が動かず辛そうであった。ここ数年、左足の付け根が痛くて痺れ、以前の様な走りは出来ず、足を引き摺る様にしか進めないのである。45キロまで、順調に来ていた様だが、最後の5キロで限界がきたようで、辛うじて歩いてゴールにたどり着いたのであるが、湯治宿でもある『鶴の湯』、そして「玉川温泉」に入り続けることで、痛みも治まりつつある。


温泉の効能は、体に対してだけではなく、心にもホッとしたものを与えるのは何でだろう。 ずっと帽子を取らない女性が何人か見受けられる。歩くのがゆっくりの人も多い。しかし、みんな優しい目をしている様に見えるのである。生命の大切さがわかっているからか?自分の限られた時間を感じているからか? 


僕は、僕自身普段からそれほど長生きしたいと言う意識がとても希薄だと思っている。ただ、残された命があと何日かとわかっていたら、どう生きるだろうか?

2回の悪性腫瘍切除の経験から、まぁ60歳まで生きれれば良いと思ってきた。それが、あと残り100日を切った。本当に辿り着けるのかと思いながら、この半年カウントダウンをしているのであるが、貴重な時間と思いながらも、日々あまり変わらない生活をしている。


結局、ずっと自分の時間を、自分の意思を大切に生きてきたのかも知れないと漸く気づく。心残りは、絵を描くことを、もっと上手になりたかったことだ。

マラソンを走る時の心構えとして、「まだ」と考えないことがとても大切だ。「まだ」ではなく「もう」なのである。「まだ30キロ」と考えるか、「もう30キロ」も走ったのかと考えるかで、走りが変わる。

一方で、まったく新しい挑戦は、
そして生きる気力は、
「もう」ではなくて「まだ」なのだろう。


何かを始めるには、「まだ」遅くない。

だから僕にも、少しは絵が上手くなる時間はあるのだろうか?



森の黒ひげ塾
塾長 早川 典重


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