文章が映えてない。
私は一応ライターとしてお金を貰うこともあるため、ある程度のセオリーに従った文章を書くようにしている。
セオリーと言っても同じ語尾を使わないとか、句読点の数とか、その程度だ。
句読点を適切に使わないと読みにくいとか、検索に引っ掛からないとか、同じ語尾になると読みづらいから良くないとか、色んな理由で出来上がったセオリーを私は結構忠実に守っているのだが…
最近そんなセオリーなんて全然無視で書いているのに、めちゃめちゃ文書が面白い人って沢山いるよな…と、noteを見ていると感じることが多い。
仕事にするにはセオリーを守ることは大切だ。
どの仕事でもそうだろう。
だけど、時としてそのセオリーさえも覆してしまうような人が居て、ここnoteにはそんな人があちらこちらに存在する。
そういった人は、ハートの数もそれなりにあって、やっぱり目を引く文章を書いているんだなと確信するのだ。
そんな現実を目の当たりにする度、自分ってなんて単細胞で才能のない面白さに欠けた普通の人なんだろう。
と、凹む…
そんでもって文章に使っていいのか分からない言葉なので、馬鹿なことを言うなと思われるかもしれないが、とにかく文章が映てない!という感覚が頭にドーンと押し寄せる。
それがとてつもなく悲しい。
悲しくなっても文字を書くのを辞めないのは、書くことが好きだからだけど、その好きな文字を書いて捨ててるだけのようにも思えて、私は私の書く文字が最近可哀想になって仕方なくなってきた。
誰に愛される訳でもない、ただ綴られただけの感性に欠けたエモさのない文章…もっとあの人の文章はキラキラと光を放っているのに。
私の各文章はまるで、テスト問題のようにずっと固くて冷たい。
そんなふうに画面上に浮き上がらせてしまったことに、申し訳なささえ感じる。
文字だって、同じ文字ならキラキラしたかっただろう。
同じフォントでも、与えれた言葉次第で印象は変わっていくように思う。
私ももう少し感性を養えば、あんな風にエモーションな言語を使えるのだろうか?
とにかく私は人の心に何かじんわり芽吹きそうな、心の動きを伴う感性を文字に込めて文章を綴りたいのだ。
その思いは昨年の末から考え始めているので、そろそろその辺を今より真剣に学び始めないといけないな…と思う。
今年はもっと感性磨いて、誰かの人の心に何かじんわり芽生えそうなエモーションを届けたい。
キラキラした文章を読むと、私は心がぐっと動き出しそうな感覚に襲われるのだが…それを誰かに感じてもらえるのが目標だ。
映た写真を見ると、心がフワッと彩られるように。
映た文章も、心を動かす力がある。
それを、生み出したい。
今は名乗り始めたばかりのライターやエッセイストの肩書きも、誰かが私の頭に冠名のように勝手につけるようになるように…
それに相応しい、文書の使い手になりたい。
そんなことを思いながら今日も、文書を書く。
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