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雨と話す方法 〜 第一回 〜



今日も大量の塩をコーヒーに入れてしまい、飲んだ瞬間に頭がパニックになってしまいました。

口に含んだ次の瞬間だったのか、その次の瞬間だったのか、喉を通過した後の瞬間だったのか、だいたいそのあたりの瞬間で吐き出しました。瞬間がいっぱいだ。

そんな苦い想いとともに、今日は「 雨と話す方法 」を書きます。言語化するには難敵ですが頑張ります。

途中で挫折するかもしれません。そうなったときには、厳しいジャッジで僕を裁き、ブログの読者をやめたりブロックしたりしてください。今日は自分に厳しいのでよろしくお願いします。


はじめに


「 子供の頃のように 」「 子供みたいに 」「 子供の頃だったら 」こんな言葉たちが飛んで回って墜落しています。子供は美化する対象ではありません。

子供の頃のようになりたかったら、自分の赤ん坊の頃を思い出しましょう。「 子供 」というのも幅広いですね。物心がついたら大人と同じような事をかなりしているものです。

僕がオムツをして寝かされているときの記憶は殆どが天井か床か土でした。

上からぶら下がるオモチャよりも先にある天井の木目を目で追っていました。たまに真っ暗な顔が何回かこちらを覗き込み、パッと消えてなくなる。音は何も聞こえません。

透明のビニールに自分が宿っている感覚でした。宿らされているという方が正解かもしれません。

太陽に当たっているわけでもないし、時計を知らないから時間を気にすることはなかったですね。だからか日々や人間の時間で区切られた感覚は存在しなかったのです。区切るものといえば真っ暗な顔が現れるペースというものを捉えはじめた時でしょう。

「 雨と話す方法 」は、だいたいこの自分自身が赤ん坊の頃にしていたやり方がベースになります。

「 偶然のボヤけた世界にフェードインしながら登場 」「 偶然に真っ暗な顔が現れる 」「 観察 」「 区切る 」「 予測 」「 偶然の中に法則を見つける 」

今、また少し思い出しました。たまに強いレフ板みたいに物凄い光を浴びる時がありました。かと思えば急に真っ暗になってザラザラしたものが目の前にある。上を向いてるか下を向いてるかがほとんどなので、太陽と土は強烈でした。



雨に会いに行く

〜観察〜


雨と話すために雨を観察しましょう。

はじめは激し目の雨がわかりやすいかもしれません。雨が降りはじめたら、窓をあけましょう。

「 雨の皆さん、よろしくお願いします 」

そういうことは言わないでください。雨も迷惑だと思います。

ただ静かに雨を見る。そして聞く。目を閉じて聞く。目を開けて耳を閉じて聞く。耳も目も閉じる。



あなたの雨とはなにか


「 雨 」という言葉を聞いたときや、雨を感じた時に「 ありがたい恵み 」と感じるのか「 水滴がポツポツだな 」と感じるのか「 雨と話す方法 」を続けていくとなぜそう考えるのかが見えてきます。

物体に対して自分がどう思い感じているのか、または物体は物体であってただの物体だろうとサッパリしているのか。この分岐点は人間の生き方を大きく分けるアンテナのひとつにもなります。

雨をありがたいと思う人。雨を怖いと思う人。そうでもない人。いろんな人がいると思います。雨というものに対してそれぞれ強い思い出や意味付けがしてあると思うのですが、それはそれでいちど置いておき、観察をしてみましょう。

「 雨 」をもっと細かく「 水 」とか「 水滴 」にしたらどうなるでしょう。

雨とはあなたにとってなんでしょう?水とはあなたにとってなんでしょう?どう感じるでしょうか?



水の粒たちの音

〜区切ってみる〜


雨が窓枠に跳ね返る音。

雨樋から水滴が垂れる音。

遠くから聞こえるノイズのような雨音。

車につぶされる水たまり。

時間をかけてゆっくりと
同じ場所にいて
観察を続ける。

× × × × × × ×


ポン ポン ポポン 、、

ポン ポン  ポポ ピッ

ピッ ポン ポポ ピッ

ピッ ポン   ポ ピッ


× × × × × × ×

同じペースで「 ポン 」がくる。

もう一回聞いてみよう。

× × × × × ×

ピッ ポン  パ ポポ

ピッ ポン   ピッ ピッ

ポ  ポン ピッ ポ

プゥッ   ポン ピッ ポ

× × × × × × ×


最後にやや「 ポン 」がずれた。

「 プゥッ 」は
風がやや強く変わった音だった。

「 ポン 」は室外機に滴る大きな水の音だった。この雨の強さと量からして「 ポン 」がこのペースでくるのか。

そして、この風が吹けば、「 ポン 」はこれぐらいズレる。

私は「 ポン 」を予測できるかもしれない。この偶然性が高い雨の中に一つの文脈を発見できるのかもしれない。

ランダムな雨は区切り区切りしだいでやや形となり、その区切りは風の影響を受け歪みを起こす。

更に、この時間の交通量を把握し、雨の日のかなり遠くからやってくる車の音を観察し、分析し続けた結果、やや定期的に車に潰される水たまりの音を、観察次第では限りなく的確に楽器や声で射抜くこともできるのです。



第一回の最後に


繰り返し繰り返し偶然性に向き合い、物体や現象の特性をつかみ、ひとつの点を決める。

そこにいたるまでの感覚を研ぎ澄ますことや体調の準備など突き詰めればキツイ事なのかもしれません。風も観察して研究しなければならないし、日を跨いで同じ場所に会いに行っても、また違う雨が待っているのです。

今の自分の反応からしていることや感じることも観察します。自然の中にパッと入っただけで脊椎反射的に「 山と話せた 」と思い込んでいる自分をも更に観察するので、時間を使います。

ランダムに今そこで鳴っている物質と物質の交わる音、ランダムに自分の身体の中にある過去から鳴る音、更に物体たちからわいてくるランダムな自分の記憶。これらを観察して研究して予測して、自ら湧いてきた点(粒)を偶然性の現実空間の中に打ちつけていく。そんな作業です。

自分の見たくないものも見る覚悟や自分にとっての「 絶対的なもの 」を疑う勇気がないと、雨と話す事はできません。

この「 雨と話す方法 」も確立されてくると「 絶対にこうだ 」という気持ちから、傲慢になり強引に自分の都合のいいように雨をとらえはじめるので、定期的にかなり疑いの余地を持たないと、自分自身の人生にとって全くよくない方法になってしまいます。

もしかしたら人間は雨と話さない方がいいのかもしれません。


つづく









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