「古典学習」の意義について

 今回は、「古典学習」の意義について考える。

 ここでいう「古典学習」とは、小学校や中学校、高等学校で学ぶ「古文・漢文」と呼ばれる国語の科目の学習を指す。

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 この「古典学習」については、ひろゆきさんが自身のTwitterで次のように述べている。

 ひろゆきさんは、「古文・漢文」の代わりに必須(必修)とすべき科目があり、「古典学習」が必要なら「現代語訳や漫画を国語の授業に多く取り入れるので十分」と述べている。

 確かに、様々な知識が必要な現代社会では「古文・漢文」よりも必修とすべき科目があるかもしれない。また、「古典学習」において、単語や文法を学習し原文を訳すことがなぜ必要なのかは明らかでない。

 ただし、ひろゆきさんを含め多くの人は、「古典」そのものが不要でつまらないと考えているわけではないと思われる。このことは、以下のような「古典」を題材とした作品が、現代でも数多くあることからわかる。

  • アニメーション映画『かぐや姫の物語』高畑勲監督(2013年)

  • 小説『六条御息所 源氏がたり 上・下』林真理子(2016年)

  • マンガ『キングダム』原泰久(2006年~現在)

  • アニメ『平家物語』山田尚子監督(2022年)

 もちろん、このような作品が多くあるのは、「古典」が必要で面白いためではなく、学校で学習した(している)人に多かれ少なかれ「古典」の知識があり、集客が見込めるためとも考えられる。

 しかし、仮にそのような側面があったとしても、これほど長い間かつ広く受け入れられる「古典」が不要でつまらないとは考えにくい。

 では、そのような「古典」を学習することの意義は何だろうか。以下では、単語や文法の学習を含む「古典学習」の意義について考える。ただし、「古文・漢文」を必修の科目とすべきかどうかについては、他の多くの科目との関係の中で決定されるべきであり、筆者の手に余るため考えない。

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 結論から述べれば、「古典学習」の意義の一つは、「異なる他者」を理解する力を育むことであると思われる。ここでいう「異なる他者」とは、時間的・空間的に離れた他者のことを指す。

 例えば、日本最古の作り物語とされる『竹取物語』は今から1000年以上前の作品であり、『韓非子』にある故事の「矛盾」は今から2000年以上前の作品であることからも、「古典」は時間的に離れた作品であると言える。

 そのため、このような「古典」作品に触れることで、日本や中国の文化あるいは日本人や中国人の考え方を知り、それらが過去と今とで大きく違ったり似ていたりするということを私たちは理解できる。

 『三省堂国語辞典』編集委員を務める飯間浩明さんは、自身のTwitterで次のように述べている。

 このような言葉の用法や文化、考え方に共通点や相違点を見出すことで、時間的に離れた他者の考え方や文化を理解する力を育むことができる。

 また、「古典学習」は、時間的に離れた他者だけでなく空間的に離れた他者を理解する助けにもなる。

 これは、故事の「矛盾」などの「漢文」が、中国の文化や中国人の考え方を反映していることからも明らかである。また、「古文」に関しても、遠く離れた他者や故郷について詠んだ和歌などに触れることで、空間的に離れた他者の考え方や文化を理解する力を育むことができる。

 このように、「古典学習」の意義の一つは、時間的・空間的に離れた「異なる他者」を理解する力を育むことであると思われる。

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 では、このことが「古典学習」の意義の一つであるとして、単語や文法の学習は必要なのだろうか。

 この問いはそもそも、それらを学習をしなくても「古典」作品に触れることはできるだろう、というひろゆきさんなどの考えによる。

 確かに、「古典」作品の現代語訳や「古典」を題材とした現代の作品からも「古典」の魅力は理解できるかもしれない。また、「異なる他者」を理解する力を育むことも、それらから可能かもしれない。

 しかし、結論から述べれば、単語や文法の学習は「古典」作品に触れる上では不要かもしれないが、「異なる他者」を理解する力を育む上では必要不可欠であると思われる。

 「異なる他者」を理解する力については、「古典学習」によって「過去の日本人」や「過去の中国人」を理解する力として述べたが、現代社会でもこの力は重要であると言える。

 次の動画は、林修先生が2020年の大学入試センター試験から、現代文の出題傾向と必要な対策を解説したものである。

 動画では、「評論」で抽象的で難解なテーマが出題され、「小説」で戦時中が舞台の物語が出題されるなど、高校生に馴染みのない内容であったと説明されている。そのため、試験は「遠い他者への{理解力・想像力}」を問うており、今後の大学入試でもそれは同様だろうと林修先生は述べている。

 この「遠い他者への{理解力・想像力}」は現代文の出題傾向であるが、この力はまさしく「古典学習」で育まれる「異なる他者」を理解する力である。この力は、時代の流れに対応した学習指導要領を基にした大学入試で問われることからも、現代社会を生きる上で非常に重要と言える。

 それは、情報化やグローバル化の進む現代社会において簡単に「異なる他者」とつながることができるからこそ、他者を尊重し多様性を認める上で必要とされる力であると思われる。例えば、次のような場面が考えられる。

  • インターネット上で空間的に離れた人とやり取りをする場面では、対面でのやり取りの場面よりも相手の状況を考慮し、相手の人格や感情を損なわないよう注意する必要がある。

  • 同じ現代社会を生きる人とやり取りをする場面でも、相手の年齢が自らの年齢と大きく離れていれば、ジェネレーションギャップ(世代間格差)があることを考慮に入れる必要があるかもしれない。

  • 自らの母語と相手の母語が異なり、どちらかの言語でやり取りをする場面では、母語話者は非母語話者に対して簡単で相手がわかるような言葉を時に使う必要がある。

 このように、「異なる他者」を理解する力は現代社会でも重要であるが、これこそが「古典学習」での単語や文法の学習が必要不可欠な理由である。

 というのも、現代社会における「異なる他者」とのやり取りでは、現代語訳も要約もない。そのため、相手とのやり取りの中で適切な方法を探りながら、時に困難さをともなうコミュニケーションをとることが求められる。

 もちろん、通訳を介したり翻訳機を使ったりしてコミュニケーションを取れば言語上の問題はないように思える。ただし、通訳や翻訳機の精度は完璧ではなく、文化上の問題もクリアしなければならないため、「異なる」他者を理解する力は今後も必要であると言える。

 その点、単語や文法の学習では、「異なる他者」の心情や文脈をふまえて現代語に訳す練習をすることで、「ルーツや世代が同じ」人との「自らの母語」でのやり取りでは経験しないような苦労や失敗を何度も経験できる

 これは、「古典学習」のみならず英語や歴史などの学習にも当てはまる。こうした学習は、現代社会での「異なる他者」とのやり取りで誤解や衝突を未然に防いだり、それらが起きた時も適切な対応をしたりするのに役立つ。

 つまり、「古典学習」で単語や文法を学習し原文を訳すことは、現代社会で重要な「異なる他者」を理解する力を育む練習となるため必要不可欠であると思われる。

 最後に、「古文・漢文」を必修の科目とすべきかどうかについては、他の多くの科目との関係の中で決定されるべきであると先に述べたが、少なくとも、単語や文法の学習に偏ったり現代語訳や要約の学習に偏ったりすることは、「古典学習」の意義からして適切ではないと思われる。

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 今回は、単語や文法の学習を含む「古典学習」の意義について考えた。

 結論として、「古典学習」の意義の一つは、時間的・空間的に離れた「異なる他者」の考え方や文化を理解する力を育むことであり、単語や文法を学習し原文を訳すことは、原文の現代語訳や要約と同じく必要不可欠であると思われる。

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参考文献・参考資料(2022年3月15日最終確認)
ひろゆき、Hiroyuki Nishimura (Twitter)2021月2月19日
https://twitter.com/hirox246/status/1362451268430618627
https://twitter.com/hirox246/status/1362702271184797698

飯間浩明(Twitter)2016月12月5日
https://twitter.com/iima_hiroaki/status/805678663463112704

「林修先生がセンター試験・共通テスト現代文の出題意図を徹底解説」東進TV、2020月2月10日
https://www.youtube.com/watch?v=CwRLUpCxcd8

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