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「行為×環境=評価」について

はじめに  今回は、「行為×環境=評価」について考える。  結論から述べると、個々人が他人から受ける「評価」は、その人の「行為」そのものではなく、その人の「行為」とその人が置かれている「環境」のかけ算であると思われる。  裏返せば、個々人が他人から受ける「評価」は、その人が置かれている「環境」によって変わりうるということである。  このことは、当たり前と言えば当たり前だが、上記のように「かけ算」のような数式で表すことでよりわかりやすくなると思われる。 本論  具体

    • 「変わった」の「変な」意味

      「変わった」の「変な」意味  「変わった」という言葉には「変な」意味がある。それは、「普通と違う」という意味である。  例えば、「世界は大きく変わった」と言う時は「変化した」という意味なのに、「変わった車を買う」と言う時は「普通と違う」という意味になる。  では、「変わった」という言葉に「変化した」という意味があるのは当然として、なぜ「変化」とは無関係に思える「普通と違う」という意味もあるのだろうか。 英語で考える  英語で考えてみる。  辞書で「change」と

      • 「正しい」と「正確だ」の違いから

         今回は、「正しい」と「正確だ」という言葉の違いから、主に言語習得について考える。 ♦ ♦ ♦  まず、次の一文を見られたい。  ここでは、鉄道の発着時刻に関して、ドイツはイタリアと比べると正確であるが、日本と比べると不正確であることが述べられており、上の一文からこの内容を理解することは、それほど難しくないと思われる。  では仮に、小学生でもこの内容を理解できるようにするためには、どうすれば良いだろうか。上の一文をそのまま読ませたり聞かせたりすれば、少し「わかりにくい

        • 「東大合格」は「すごい」のか?

           今回は、「東大合格」は「すごい」のかという問いから、合格の「すごさ」と合格の「難しさ」の関係について考える。  ここでいう「すごさ」とは、人からどう思われるかのような、社会的な評価の高さを指す。また、合格の「難しさ」とは、その学校の偏差値の高さを指す。 ♦ ♦ ♦  そもそも、「東大合格」は「すごい」のだろうか。「すごい」とすれば、なぜ「すごい」と言えるのだろうか。  これらの問いには、次のような答えがある。 「東大の偏差値は非常に高く、合格には相当な努力や才能が

          「古典学習」の意義について

           今回は、「古典学習」の意義について考える。  ここでいう「古典学習」とは、小学校や中学校、高等学校で学ぶ「古文・漢文」と呼ばれる国語の科目の学習を指す。 ♦ ♦ ♦  この「古典学習」については、ひろゆきさんが自身のTwitterで次のように述べている。  ひろゆきさんは、「古文・漢文」の代わりに必須(必修)とすべき科目があり、「古典学習」が必要なら「現代語訳や漫画を国語の授業に多く取り入れるので十分」と述べている。  確かに、様々な知識が必要な現代社会では「古文

          「古典学習」の意義について

          「絶望」と「数学的帰納法」の関係について

           今回は、「絶望」と「数学的帰納法」の関係について考える。結論から言えば、一見すると無関係な「絶望」と「数学的帰納法」は、大きく関係しているかもしれないと思われる。 ♦ ♦ ♦  『広辞苑』で「絶望」と引くと、次のような記述が見つかる。  この記述において、「たえる」ことは「絶える」ことであり、「希望を(全く)失う」ことは「希望が叶わないと考える」ことであると考えれば、「絶望」とは「未来において希望が叶わないと考えること」と言える。  しかし、「未来」はそもそも不確か

          「絶望」と「数学的帰納法」の関係について

          「人権」か「市民権」か?「身長が170cmない男性は人権なし」発言から考える。

           今回は、プロゲーマー・たぬかなさんの「身長が170cmない男性は人権なし」という趣旨の発言から、「人権」と「市民権」という言葉について考える。  ネットニュース「ANN」によれば、たぬかなさんは2022年2月15日に行った自身のライブ配信で、次のような発言をしたとされる。  この発言に道徳的な問題があることは当然だが、なぜたぬかなさんがこの発言をしてしまったのかについて、「人権」と「市民権」という言葉の観点から考える。  まず、「人権」について。『広辞苑』で「人権」と

          「人権」か「市民権」か?「身長が170cmない男性は人権なし」発言から考える。