「変わった」の「変な」意味

「変わった」の「変な」意味

 「変わった」という言葉には「変な」意味がある。それは、「普通と違う」という意味である。

 例えば、「世界は大きく変わった」と言う時は「変化した」という意味なのに、「変わった車を買う」と言う時は「普通と違う」という意味になる。

 では、「変わった」という言葉に「変化した」という意味があるのは当然として、なぜ「変化」とは無関係に思える「普通と違う」という意味もあるのだろうか。

英語で考える

 英語で考えてみる。

 辞書で「change」という言葉を調べても、「普通と違う」という意味は見当たらない。

 しかし、同じく「変わる」を意味する「varyベアリー」という言葉は、「variationバリエーション」という派生語になると「変種、変わり種」のような意味を表す。

 つまり、「変化」を表す言葉に「普通と違う」という意味があるのは、日本語だけではないらしい。これは、とても「変な」ことのように思われる。

仮説

 では、なぜこのようなことが起きるのだろうか。

 すぐに思いつくのは、「へん(だ)」という言葉が先にあったからという説明である。

 ただ、この説明では、なぜ「普通と違う」ことと「変化する」ことが同じ「変」という漢字なのか明らかでない。また、なぜ英語でも「変化」を表す言葉に「普通と違う」という意味があるのかを説明できない。

 そこで、次のような仮説を立ててみる。

「変わった」という言葉の「普通と違う」という意味は、「変化した」という意味から生まれた。

 つまり、「変わった」という言葉の意味が広がり、「変化した」という意味だけではなく「普通と違う」という意味も表すようになったという仮説である。

 そのため、この仮説では、「変わった」という言葉の「普通と違う」という意味は「変化」と無関係ではない。むしろ、「普通と違う」という意味は「変化」を前提としていると言える。

検証

 この仮説を、「変わった」という言葉の形(活用)から検証してみる。

 例えば、「変わった車」を「変わる車」とは言えないし、「あの車は変わっている」を「あの車は変わりそうだ」とも言えない。

 つまり、「普通と違う」という意味で使われるのは「変わった」や「変わっている」という形だけであり、「変わる」や「変わりそう」という形では使われない

 これは、「普通と違う」ものは「普通な」状態から「普通と違う」状態に「変化」した結果であることを表している。だからこそ、これから「変化」することを表す「変わる」や「変わりそう」という形ではダメなのである。

 また、「変わっている」という形も、いわゆる「現在進行形」ではないと思われる。

 これは、「虫が飛んでいる」や「物を叩いている」などの「ている」の形ではなく、「虫が死んでいる」や「物が壊れている」などの「ている」の形である。

 前者の「ている」は今まさに何か(飛ぶ、叩く)が進行しているのに対し、後者の「ている」はすでに何か(死ぬ、壊れる)が完了しその結果が継続しているような意味を表す。

 まとめると、「普通と違う」という意味を表す「変わった」は過去形であり、「変わっている」は結果の継続を表す形であることからも、両者は「普通な」状態から「普通と違う」状態への「変化」の結果を前提としている。

理由

 先に立てた仮説は次のようなものだった。

「変わった」という言葉の「普通と違う」という意味は、「変化した」という意味から生まれた。

 これが仮に正しいとして、どのような理由で「変化した」という意味から「普通と違う」という意味が生まれたのだろうか。

 これはおそらく、「普通」を基準にして物事を考える習慣が人に強く備わっているためと思われる。

 そのため、初めから「普通と違う」ものであっても元は「普通な」ものだったのだろうと考えて、「普通と違う」状態を「変化」した結果とみなす。これは、曲がった傘を見て元のまっすぐな傘を思い浮かべるのと似ている。

 繰り返しになるが、「変わった」という言葉は、「普通」との「差異」だけでなく「普通」からの「変化」を前提としている。そしてこれは、「普通」を基準にする人間の習慣によるものと思われる。

「変わった」ものへの評価

 興味深いのは、「普通と違う」という意味を表す「変わった」という言葉に、しばしばマイナスの評価が含まれることである。

 例えば、「変わった人」とか「あの人は変わっている」と言うとき、その人に対して「協調性がない」とか「おかしい」などのマイナスの評価が含まれることが多い。

 他にも、元は「姿や形を変えること」という意味を表していた「変態」という言葉は、今では「性的異常者」のような意味も表してマイナスの評価が含まれる。

 つまり、「普通」との「差異」や「普通」からの「変化」は、「欠点」のように表されるということであるが、これは「普通」とされるマジョリティの言い分に思えてならない。

 そもそも、元が「普通」だったかに関わらず、「普通と違う」ことは必ずしも「欠点」ではない。

 むしろ、「普通と違う」ことは時に大きな強みになる。生物の進化は「普通と違う」個体が誕生することの繰り返しと言えるだろうし、人間社会でも第一線で活躍する人々はどこかしら「普通と違う」のではないだろうか。

 しかし、「変わった」という言葉では、「普通と違う」ものが元は「普通」だったとみなされ「変化」のように表される。さらに、それが単なる「変化」ではなく「欠点」であるかのようにマイナスの評価が下される。

 このことから、「普通」を基準にすることと合わせて、人間の習慣には、「変化」を「欠点」とみなすことが挙げられると思われる。

 このような見方は、「普通」とされるマジョリティの傲慢や暴力とさえ言えるかもしれない。

 もちろん、周りへの気遣いや協調性が不必要ということではない。そうではなく、「普通と違う」もの(人)への見方を「強み」とする見方が時に必要なのではないだろうか。

 そうすれば、「差異」や「変化」、「欠点」としてのみとらえていたものも、「強み」や「個性」として見出すことができるだろうし、自らの「普通と違う」ところも肯定的に受け止めることができるようになると思われる。

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