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私と演劇の関係について

私は、演劇が好きだ。これから、私と演劇の出会いを記していきたいと思う。

(追記。コロナの情報がみたいな文が、上に出てしまうことが本当に気に食わないのだが、ある程度人生を振り返って語っていく上で、コロナがあったことって書かざるを得ない。これからの教科書には載る事案だろうし。コロナに関する誤解を招く情報なんか知らんし、書けないよ!!!と先に言っておく。)

●幼稚園:謎のスパルタお遊戯会

思えば、ある程度の素質はここで養われたような気がする。私が通っていたところでは、Theお遊戯会至上主義であり、役柄の希望を先生との面談で出す、というような形式があった。幼稚園生に、すごいことをさせてたな、と思う。
お遊戯会で保護者たちの前に立つ感覚を、快感と思った経験は、なんとなく覚えているし、練習も楽しくて、芝居が苦手なタイプではないことを自認したということは、演劇に魅力を感じはじめた、ということなのかもしれない。

●小2:正真正銘の原点

まさしくこれは、私にとっての演劇の原点。120人の中で3人しか選ばれない、主役に選ばれた。クラスで一章ずつやる脚本で、 3クラスで1人ずつ選ばれた男の子役。
オーディションでもなんでもなく、先生のご指名。ある程度優等生だった、おこぼれを貰った。
録音した産休中の隣のクラスの担任の先生の声と会話をするシーンがあって、羨ましがられたことを、覚えている。この感情は、演劇とは全く関係なく、小さい頃のお遊戯会バトルに勝利したご満悦。たいしてその先生のことは知らなかったけど。隣のクラスだし。
1人語りがあって、全学年見てる中で一人スポットを浴びる光景は、壮観だった。そして、体育館という音が響きやすい場所で、ある程度届く声質っていうことも分かった。腹筋鍛えたりしてないし、運動音痴だったけど、大きい声が出ることもわかった。

●小5.6:素養の育成

ただ、演劇部には入らなかった。一回も見に行かなかったから、小学校の演劇部がどんな公演をしてたのかは知らないけど、少なくとも当時の私は、演劇はやるものじゃないって思った気がする。運動部は向いていない、万年文化部だ、という自負があるので、音楽部とパソコン部に入った。
習い事をさせてくれたので、発表会には慣れることができた。歌を習ったことによって、宝塚と出会って、ミュージカル鑑賞という新しい趣味ができた。
…小学生の頃は、こんな感じ。

●中学生:真面目の育成

ここで人格が形成された。
今後に関わる大きなことは、2点。

そのいち、いじめられた。まあ具体的なことは言いたくもないので避けるが、合わなそうな人は初対面でなんとなく分かる、というスキルを身につけることができた。他にも身につけられたスキルはたくさんあるけど。あと、いわゆるクラスカーストでいう1軍に私はなれる人ではないことが分かった(クラスでは平和に過ごすことができたことは補足しておく)。真面目で堅実な人になった。

そのに、文芸部に所属した。黒歴史であること間違いなしなので怖くて読み返せないが、部で発行している冊子に載せるために、4作ほど小説を書いた。あと、国語の授業は好きで(成績は上の下程度だったので得意とは言い切れない…)、3年間図書委員会に入って、本を読み耽ってた。クラスメイトからの推薦の文集委員にもなって、謎にみんなの作文の校閲もしてた。何が言いたいかというと、国語も文章読むのも好きだったから、創作意欲はあって、執筆が嫌なわけではなかった。それが、高校での私に活きてくる。

●高校生:思い出せない入部理由

高校で、ようやく本格的に演劇部に所属することになるわけだけど、どう頑張っても「なぜ入ったか」の理由が思い出せないんだから、自分で訳がわからない。

絶対にやろうと思ってたのは、茶道。ただこれは、部活動ではなくて、学校の中でやる習い事のような扱いだったので、部活動には別途で入る必要があった。(茶道は今も続けていて、これは語りだすと長くなるので、またの機会に書くことにする。)
茶道はやるとして、部活動の候補にしてたのは、吹奏楽と百人一首。ただ、吹奏楽は、茶道がやれないと言われてしまったことと体験でフルートの音がならなかったことから早々に諦め、百人一首は先輩が怖いという噂を聞いて、見学もしないで諦めた。

それで、このとき私は6月開催の運動会の、応援団という役割をやっていた。これが華やかな衣装を着られる役割なのだけど、奇跡的についてしまった役割で、まぁ1軍女子のやりたくなることだよねってことで、先輩同級生ともに、人間関係にまあ苦労した。目立たない本好きの女子がやるには、明らかに荷が重すぎた。高校デビューなんて、いきなり出来るもんじゃない。
なので部活動の見学に行く時間もなく、吹奏楽と百人一首を諦めた私は、なぜかダンス部か演劇部で迷っていた。(便宜上ダンスと書くが、このダンス部は、一般的な運動部のダンス部ではないことは追記する)

ダンス部は、学校全員が認める、1軍女子の部活だった。だが私は応援団の活動からも、再度1軍女子にはなれないことを認識していた。女子しかいないのに(女子校)身だしなみに気を使う必要なんてないと思うし、女子しかいないのに(女子校、二回目)わざわざ早起きして校則違反のメイクをやるのも意味がわからないのに、バレないようにすっぴん風メイクをやるなんてアホみたいだし、お洒落なカフェに毎日のようにお金を使う放課後は馬鹿馬鹿しいし、授業はサボれない。私って真面目。

演劇部に惹かれた理由の、覚えている一つ目は、メンツの良さ。掲示してある名簿に記入しにいくスタイルで、書いてある名前が、知ってる人で、良い人たちばかりだった。…という訳で、中学から持ってるスキルが発動したのである。
歓迎公演は観に行ったけど、あんまり響かなかった(他の同級生には響きまくりなので良くないわけではない)。とにかく、演劇がやりたい訳ではなかった当時の私にばちーんとハマる、やりたかった理由が思いつかないのだ。ミュージカルはよく観に行ってたが、演じる側になりたいと思った記憶はない。ただ、今書いていてなんとなく思い出してきたが、芝居を見ている時、「私だったらこうするのに」という思いはあったような気がする。演者もド素人に思われたくないだろうが、演じることに対して客観的な視点が持てているなら、演劇に多少は向いていたのかもしれない。

まあとにかく、私は、他にもあった数々の選択肢から、何故かダンスと演劇に絞り込み、演劇部への入部をしたのである。

●高1:はじめての役

入部した演劇部は、少人数でありながらも活動ほぼ毎日という、まあガチな演劇部だった。引退までに携わった公演は、10公演であった。役者としてのスキルも養われたと思うが、スタッフにかける手作りの力も異常で、「部員全員で0から作り上げました」がキャッチコピーだったと感じる。

最初の2公演は、1年生なのでスタッフとしての活動だったが、一応オーディションもあり、脚本を読み込むという過程を知ったため、役者になれなかったことにそれなりに悔しいという気持ちが芽生えていた。スタッフワークを精一杯頑張り、1つの舞台にどれだけの手がかかっているのかを知って、役者として表に出ることに憧れも抱きながら迎えた、次の公演である。

この公演は、部員全員がキャストになれる舞台であった。そして、真面目にオーディションが行われた。そこで私がなってしまったのは、なんと喋らない、手話のみの大人な女性の役である。メインどころではあったし、女子校なので希望していない男役になる選択肢もあったため、本当なら喜ぶべきところだ。しかし私は、すさまじくショックだった。
オーディションでは台詞を発する場面も演じたものの、のちのち演出を務める先輩から言われたのは、私の役と一緒に行動している男役の役者との相性を見て決めた、ということである。つまり、はじめての役で、演技が全く評価されなかったのだ。自分で言うのもなんだが、当時の演劇部のメンバーでは、男役に向いていない声質であり(男役の演技もできない)、大人な女性に適任な見た目をしていた、という自覚がある。周りとのバランスで決まった役だ、ということに自分自身でも納得できてしまったため、演技が評価されなかったことが、とにかくショックだった。はじめての舞台となる同級生が、台詞の喋り方に苦戦している中、私は手話の練習ばかり。今思えば表情や佇まいの練習など、役者として他にもできることはあったし、この上なくやりがいのある役だと思うのだが、演出の先輩からの指摘は「とりあえず手話頑張れ」。私は演劇部に入っているのになぜ覚えたくもない手話をやってるのか、という感情を募らせながら、一人で手話の練習を重ねた。他のみんなのように対話の演劇が出来ないことが、もどかしかった。

ただ、本番で「やめて」という手話をしたとき、今までの練習では出来なかった「怒りのときの身体表現」ができて、ぱち、という音をたてながら手話ができた。感情によって、スピードが変化する手話もできた。今思うと、練習で出来とけよ、という内容ではあるのだが、他のみんなが練習していた「感情を台詞に載せる」という行為が、私は手話でできた、手話役の私でも演劇ができた!という嬉しい気持ちになった。はじめての役で、表舞台に立つことの快感を覚えたのだ。そして、次こそ喋りたい、という野望を抱きながら、公演に必死に取り組んでいく。

●高2:演技をやり切れた経験

その後は、スタッフワークにも役者にも楽しさを見出し、生活の中で授業と演劇が同じように大切なものとなっていた。役者になれない、いい役になれないという悔しい気持ちも経験しながら、初めてチャンスを掴み、忘れられない役者の思い出になった公演がある。

私が役者をすることになった公演は、演劇部にいる皆が憧れる「秋の公演」であり、文化祭と大会を兼ねた公演だった。文化祭は校内の大きなホールを使える唯一の公演であり、大会は上手くいくと全国まで進めるという、重要なものだった。そしてここで私が掴んだ役は、1人で対照的な2役を演じる、非常に難易度が高い役だった。なぜ私がなったのかというのは今でも謎なままであり、最初の読み合わせの録音は聞くに耐えないものであったが、とにかく練習を重ねた。
感情が全て台詞と動きに載るように、壁に向き合いながら一人で練習をした。もちろん対話の練習もした。台本は書き込みでぐちゃぐちゃになり、役作りのために作ったノートはほぼ一冊埋めた。通しの録音を聞き、自分でもっとできるなという部分を書き出し、学校に行って練習した。この経験から、手話役で喪失した演技への自信を取り戻し、「演劇部で演技をしている私」が好きになった。

先輩の素晴らしい創作脚本に恵まれながらも、結果的には、地区大会で敗退し、都道府県の大会までは進むことができなかった。進めなかったことは部員で悲しんだが、私自身は、生徒審査で最優秀女優賞の賞状をもらうことができた。その賞状は、「夏休み宿題頑張ったで賞」とかのしょうもない賞状ではない、立派な団体からもらった、はじめての賞状となった。不器用で誇れるところなんてないと思っていた私にとって、得意なことは演劇、という証をいただけた、非常にやりがいがあった公演だ。演技をやりきったと心から思っていたため、もしこの公演で引退なら、私は演劇は続けていなかったのかもしれない。

●高3:悔いが残る作演出業

だが、前述の通りガチな演劇部なので、3年の秋で引退だった。同級生たちの引退作となる公演で、私は、作演出という領域にチャレンジすることになった。
理由としては、この公演の1つ前で、4人しかいない登場人物の中の1人をやったため、出番がそれなりに多く、演じ甲斐があったことだ。お客さんがたくさん入れる大きなホールでの演技経験もつめたため、もう役者は十分ではないか、という気持ちになった。最後の公演は、どんな脚本になるかも分からず、やりたい役ができる確証もない。だったら自分で作っちゃえば良いのではないか、という気持ちが働いた。すると、役者よりも作演出をやりたい気持ちが勝り、今まで全く抱かなかった創作意欲が悶々と渦巻き、だーっとプロットを書けてしまったのだ。ここで、中学の文芸部経験が、演劇に繋がってくるのである。

脚本は投票で選ぶのだが、根回しで票を固めて、見事私の脚本が採用となった。舞台は、華の都スペインである。最後はミュージカル好きらしく、美術も衣装も世界観も壮大に行こうと決めた。
脚本執筆は非常に苦しい作業であり、先生と母の力をたくさんお借りした。ここで凄さを痛感したのは、高2の公演の脚本を書いた先輩である。先輩の作演出には、確固たる自分の世界観が展開されていた。自分の決めた演出や感情でなかったら、自分の世界に沿ってくれ、と言わんばかりの指摘をされた。だが私には、そんなものはない。女子の活躍を!みたいなテーマは曲げなかったが、指摘が入れば言う通りに直すし、役者に台詞が変だと言われれば変えるし、自分に信念が無いことを自覚させられた。執筆が適当になってしまったことを、薄々思いながらも、感じていないふりをして、蓋をしてしまった。執筆というものは、つくづく本人の性格やら考えていることやらが全て出るものだと感じる。

先に結果から言うと、地区大会敗退だった。それどころか、生徒審査の優秀創作脚本賞は取れたものの、最優秀はとれなかった。昨年の先輩の脚本は、最優秀をとったのだが、先輩の脚本に負けたと言われたのなら、深く納得できる。しかし、今年の最優秀の脚本は、高校生が挫折するけどみんなで頑張って乗り越える、といういわゆる青春ハッピーものだったのだ。そんなの誰でも書けるだろ!って内容だったから、余計に腹が立った。
あまり涙を流さない私だが、大会の日の夜は、ベッドの中で泣いた。脚本も0から頑張って考えて書いて、スタッフワークも全て0から原案を考えたのに、なぜ評価されないのか、という怒りというかやるせない気持ちが込み上げてきた。全力で頑張ってきた期間は何だったんだよ、と。

だが、涙と同時に感じていたのは、自分の作品に自信がなかったから仕方なかったのかも、という気持ちだ。実は大会一週間前に、役者として演じてくれた同級生に、つい自分の作品がお披露目されることへの不安を口走ってしまったのだ。私の脚本を信じて、脚本を読み深め、長い期間を私の作った役に捧げてくれた彼女に、そんなことは言うべきではなかった。彼女は「あなたに言われたら賭けてきた部員みんなどうしようもない」と言い放った。至極当然である。確か「ごめんそうだよね、忘れて」と返した記憶があるが、相談しようとも思っていない会話で、ぽろっと不安が漏れてしまう人が率いている公演が、大会で次に進める訳がない。
そして、引退公演の翌日、同級生があるテーマパークに行っていて、テーマパークに行けるほど余力を残して、引退公演を終えていたことに驚いた。先輩の脚本は、演じるだけで疲れて精一杯だったじゃないか、みんな思ったよりガチで取り組んでいた訳ではなかったのか、そんなに私の脚本に必死になれる要素はなかったのか、と落胆した。
私はその日、一日中布団でだらけていた。

色々書いてしまったが、非常に演劇に悔いが残る引退となってしまったことが、この話の結論である。もっと出来たのではなかったか、薄々の思いに蓋をしなければ、大会で次に行けたのではないか、という悔しさが悶々としていた。創作に関しては、自信が壊滅的に無くなってしまったので、しばらく手は付けない覚悟だったのだが、今回の公演は「作演出」を務めた以上、「脚本への後悔」ではなく、「演劇への後悔」となってしまった。なので、このままで演劇人生を終わらせる訳にはいかず、引退後も「大学で演劇をやるぞ」と決め込んでいた。そして、大学で演劇を改めてスタートすることになる。

●大学生:演劇に再チャレンジしたいけど、

そもそも大学では、建築学部の勉強をしっかりやることを決めていた。建築を選んだ理由も、演劇で0からのものづくりに興味を抱いたからで、頑張らない訳はなかった。
しかし、大学生になると、やりたいことはたくさん出てくる。なので、茶道・ボランティア・演劇、という3つのサークルに所属することになった。授業期間は授業とその課題に追われ、サークル活動はまともにできなかった。夏休みも忙しく、茶道とボランティア、加えて学科の催しや家族との予定も優先したかった。そのため、演劇にかけられる時間は、高校のときからガクッと減ってしまった。

サークルの優先順位も、演劇が3番目となってしまったが、演劇に未練を残したままではいられなかった。高校の思い出で止めたら後悔すると思った。なので、こんな忙しい私でも認めてくれる演劇サークルを見つけて、入会して、新人公演というものをやった。出番が少ないにも関わらず、なかなか稽古に参加できなかったが、役者経験は活きるもので、どうにかなった。

高校と違うのは、同期で入ったメンバーでも、それぞれのバックグラウンドが全く違うことだ。同期といっても、歳も学校も性別も出身地も、何もかもが違う。似たような状況の人が演劇にガチになる高校の部活と、全く違うのが、すごく面白かった。
あと違うのは、これは所属するサークルによるのだろうが、役がオーディションではなく、公演を率いる役割の人からのオファーで決まることだ。公演はやるべきもの、と受動的に公演する高校時代と違って、公演を作りたい人が能動的にやる、ということに、演劇への熱を感じた。一度も同じメンバーで公演が行えない、というのも、すごく新鮮だった。

●大1:演劇にかける比重の問題

そして、私にもオファーがかかったのである。オファーがかかったことも嬉しいし、女子校で出来なかった男性との芝居ができる嬉しさもあった。

そして当時の私にとって奇跡的だったことが、2つある。ひとつは、日程が大学の文化祭期間と被ったため、授業を切らずに舞台に出れること。これは当時の私にとって、最も重要だった。そして、手話役が登場する劇(前述した高1の苦い思い出)を上演するということで、数年後に観に行ったのだが、オファーをいただいた芝居が、たまたまその劇場と同じ劇場でやること。観客席で見た舞台の上に立てるというのは、ものすごく特別感があった。
加えて、超メインどころの役をいただくことができた。私は演劇への未練を払拭するかのように、必死に取り組んだし、舞台でその力を全て発揮することができたと思っている。終演後の達成感は、高2の最優秀女優賞をいただいた公演よりも素晴らしいものがあった。
当時はやりきった心境でいっぱいだったが、今から考えると、ある意味で失礼な過ちを犯した公演だった。

その過ちとは、私のこのときの演劇の位置付けが、あくまでも「授業のサブ」だったこと。この期間はサークル活動を演劇一本に絞っていて、絞っただけで演劇に身を捧げたつもりだったが、この考え方自体、非常に甘い考えである。なぜなら、周りの方々は、もっと演劇に身を捧げている方々ばかり、具体的に言うとプロを目指す方もいらっしゃったのだ。
私は、高校からの勢いで続けてしまったため、高校の部活動の感覚が抜けず、あくまでも学校がメインで、演劇はサブだった。しかし、大学での出会いを契機に、演劇の道を志す人もいるくらい、大学演劇の世界は奥が深い。そして、私が所属した演劇サークル内では、そういう人が多い環境だった。

ここで、演劇にかける比重の問題が、自分の中で浮き彫りとなった。今から考えると、大学生自体、そもそも授業を優先しなくてよいし、もっと自由に生きてみて、今後の人生を探る期間だ。しかし当時の私は課題にがんじがらめになっていた。なので、あくまでもサブとして、この芝居を扱ってしまった。非常に申し訳ないことをしていた。
(…と書いてはいるが、先述の通り、この芝居自体は、本当にやり切ることができて、達成感しかなかったことは、再度補足する。高校のときの演劇への未練がさっぱりなくなり、やっと他の同級生が感じたであろう「演劇部引退」の気持ちを抱くことができた。引退したので、演劇を続けなかった高校時代の同級生のように、演劇とはしばらく関わらなくても良いかなと思いかけていたところで、大2となる。)

●大2:コロナ禍直撃

ここでコロナ禍が到来する。人と会っていた生活から引きこもりの生活になって痛感したことは、今までの生活は忙しすぎたこと。思い返せば、高校時代は公演が終わったタイミングで風邪をひく、ということを10回繰り返していたし、大1のときも、重い身体を無理して持ち上げて、早起きしていた。生き急いでいたし、身体を酷使していた(そのことに気づくきっかけは茶道だったりする)。
コロナを恨む気持ちもそれはそれはたくさんあり、コロナが無ければ今も全力投球の楽しい毎日が続いていたであろうが、全力投球「しすぎていた」と気づくきっかけを与えてくれたことに対しては、少し有難い気持ちもある。

この頃は、演劇業界全体で完全に公演がストップしたため、趣味でもあった観劇(規模の大小問わず)が、必然的にできない状況となってしまっていた。それもあり、役者の役割や、演じるという行為に対して、あまり興味が持てなくなっていた。興味がなくなったというよりは、役者の「舞台が楽しい、演じることが楽しい」という気持ちを忘れてしまった。
そして、建築の授業はオンラインとなり、今までは実物重視で作品を作っていたが、画面、というか紙面重視の作品づくりへと変わっていった。ここで、紙面表現の楽しさを知りはじめた私は、コロナが落ち着きだしてから再興していく演劇サークルに、宣伝のチラシを作るという役割で、携わるようになった。演劇の醍醐味である直接の関わりは避け、オンラインでの関わりがメインとなった。

演劇と建築は、全く別物のニ分野ではあるが、「表現」という意味で、似るものがあると感じる。実際に、建築学生の表現の集大成である卒業設計では、演劇を行うための街の使い方の提案などが、たくさんある。なので、演劇で培った表現を、建築に活かしていこうと、この時の私は思っていた。つまり、建築にメインを据える覚悟を固めたのである。

●大3:再びの演劇熱、やりたいことをやる

コロナを経て落ち着いた生活を取り戻した私は、「何かに全力になる」ということが、億劫になっていた。コロナ前は当たり前にやっていて、日常だったはずのことなのだが、今の私は、全ての物事を適当にこなしていた。そして、建築に関しても、自分の表現を人と比べてしまい、自信が持てず、挫折を味わってしまった。研究室も、大2終了時の希望とは違うところに行くことになった。

しかし、そんな自分に、転機が訪れる。
再度、演劇サークルで宣伝のチラシを作るという仕事が舞い込み、その流れの中で、声の出演としても舞台に携わることになったのだ。今までの演劇サークル活動はオンラインがメインだったが、録音の関係で、やっとリアルな稽古というものに参加した。はじめて会う人もたくさんいる1.2年生が一生懸命頑張っている稽古は、あの必死だった毎日を思い出させた。そして、演者として声を発することに、ものすごく緊張したことが、建築における自分の自信のなさと繋がっているのではないかと、思わされた。

また、もう一つ。大1のやりきった舞台で共演していた方の、突然の訃報があった。終演後は、約2年という長い間お会いはしていなかったが、稽古期間にその方の色々な思いに触れる機会はあったため、深く心が揺さぶられた。加えて、その方は、演劇に本気で取り組んでいた方だった。“演劇にかける比重の問題”として先述したが、当時の私にとって演劇は授業のサブだったので、本当に失礼なことをしてしまったと、反省した。なので、すごくありきたりすぎることだし、もっと深くその方に携わった方もいる中で私が思って良いことなのかという申し訳なさもあるが、悔いのない人生を送りたいと思うようになった。先述した「大学生自体、そもそも授業を優先しなくてよいし、もっと自由に生きてみて、今後の人生を探る期間だ」という言葉は、この経験から痛感したことだ。

そんな最中で、舞台に役者として立たないか、というオファーがあった。今の私には演じるという行為が必要であると思い、悔いがない選択をしようと、オファーを受けることにした。
ここで、「私と演劇の関係」を綴ってきたこの長文が、やっと現在進行形になる。現在2022年2月に辿り着くまでに、9,600文字費やした。ここまで語らせる私と演劇の関係は、本当に濃厚なものだし、つくづく恐ろしい。

約3年ぶりに舞台に立つことになるが、ひと呼吸置いて演劇に携わることによって、演劇に対する、新しい見方を得られる気がしている。ただそれよりも、今は不安の方が大きい。どんな役になるかもわからないし、共演者は全く知らない上に後輩ばかりだろうし、コロナも落ち着く気配がないから確実に上演できる保証もないし、先ほど演劇をサブにしないようにする、なんて言ったけど、学年が上がって考えることもやることもたくさんあるから、サークルだけに集中できる訳ではない。
ただ、こんな不安を吹き飛ばすくらいに、オファーを受けたことは絶対に後悔しない、と先に明言しておく。なぜなら、何故かわからないけど、この公演は私の価値観が変わるものになる、という確固たる自信があるからだ。久しぶりに演劇に携わることが、今の自分にとっては必要なことだと強く感じているので、精一杯努力したい。あとは、状況に左右されることなく、有観客で演技が行えることを、願うのみである。

●これから:堅実な生き方すぎなくてもいいよね

中高にあった他の部活は、全部趣味になるものだ。例えば茶道なら、平日は会社員として働いて、休日に週一とか月一とかでお稽古に通えば、どんな人生になっても、趣味として茶道を続けられる。
でも演劇は、見る側でないと、趣味にはなりにくいものだと思う。演劇をつくる側で生きて、今有名になっている人たちを見ていくと、必ず食えない期間を経由しているからだ。だから、これから、演じる方の大人の習い事が普及してほしいと、私はすごく期待している。お遊戯会とか劇はほとんどの園や学校で絶対やってるはず。ほぼ全員が経験している「演じる」という行為が、なんで、大人になると趣味にならないのか、謎である。

…なぜ急にこんな話をし出したかというと、高校・大学と演劇に関わる生き方をしていると、どうしても今後の人生を、堅実コースと波乱コースの二者択一にしてしまうからだ。波乱コースというのは、いわゆる売れない役者とかを突き進むコースのこと。自分を表現するためには、そこに飛び込む覚悟は必要なのかもしれないけど、もう少し気楽に、演じる行為が続けられないのかなぁと思うからである。エチュード(即興劇)をする習い事とか、自己表現にも繋がって面白そうなのに。

コロナ前の生き急いでいた私なら、堅実コースを歩むことこそ人生の正解、と思い込んで、がむしゃらに頑張る人生を送っているような気がする。演劇とはきっぱり縁を切っていそう。

でも、ここまで綴ってきたことを踏まえた今の私は、気が変わって波乱コースに寄っていったとしても、それはそれで楽しい人生になる気がするのだ。今は、演劇を職業にすることよりも、他に興味のあることを職業にすることに魅力を感じているけど、さっき書いたように、演劇を習い事として続けられないか、と妄想している。

最後の結論がぐだっているが、何が言いたいかというと、演劇と関わっている私が大好きだ!!ってことです。大好きな私でい続けたいから、これからも演劇と関わっていきたいし、そのためなら堅実な生き方すぎなくてもいいよね、って話が、未来の私の展望でした。


以上、11,393文字。
自己満足ではあるけど、自分の中のモヤモヤを文章化できたので、よしとします!!!!!

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