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SUMMER SONIC2023 を終えて


今年のサマソニ、いよいよ清濁併せ呑む巨大な存在として次の段階にきた感がある。ブッキングと勢いと多様性の巨大さが、アフターコロナの人々の開放感、興味、期待、欲求、映えとかのモードとうまくあわさって、雑多とか、節操の無さも超えてきたという印象。

New Jeansおじさん論争と運営と熱中症の危険性だとか、
ジャニーズのファンが徹夜どころか前の日から並んでるだとか、そういうのがケンドリックラマーの研ぎ澄まされたステージとはあまりにも無関係すぎるところにあったし、協賛ブースの充実&広告代理店感もまた、リスナーのimaseみたいな新しいモノへの興味とは違う世界に並んでいるように見える。

必ずしも一貫性のないものの集まりも、都市型ならではの利便性と情報の塊となって、提案型では行けない別のところに辿り着いたのかもしれない。

少し前、
blurはイギリス国民に向けたシニカルなポップアートで、
Oasisはビートルズになぞらえて世界に響いたストレートなアンセムだった、として、
30年近い月日が経って、
映画「トレインスポッティング」と続編の「T2」とでは「Choose Life」の響きが違って聞こえるように、blurの「Park Life」や「Girls&Boys」「The Universal」は今は全く違うものに聴こえるというか、曲の意味がやっとわかったというか、新しい役割が付加されたのかもしれない。やっぱりアートなのだと思う。
一方でリアム・ギャラガーの唄うOasisの楽曲たちは不変。
圧倒的に不変。讃歌、国家みたいなものでしょう。

アーティストや楽曲が社会において機能する場所や役割がそれぞれにあるように、フェスもまた、ここまでの蓄積とその再開で、既にそれぞれに社会と文化のなかで役割を担いはじめているはずなんだよな、と再認識。

つまり、やっとコロナ明けてきてすぐさま「猛暑なんで夏のフェスはもう難しい。」とか言わないで、、、という気持ちです。

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