小説は得意ではない、なぜなら
わたしの読書熱が再燃してちょうど1年ほどが経過しました。
社会人になり、自分のスキルや知識不足をなんとか補おうと、本に縋ったのが再燃のきっかけです。
そんな経緯もあり、最初はハウツー本やビジネス書籍がほとんどでした。
上司に教えてもらったり時には借りたりしながら本を読み、自分でも買ってみたり。
15冊くらい読んでからでしょうか?違和感を覚えました。
どうやらハウツー本はどうもいまの自分が求めている種類じゃないのかも…。
ハウツー本は実践ありきで書かれていますが、いまは実践の土台すらままならないようなわたし。
読んでてしっくりこなかったわたしは、ハウツー本からは距離をとります。
さて、何を読もうか。
もう少し根本的なことが書かれている本を読もう、ということで、考え方や価値観が変わるような本を読み始めます。
自分の考えを改めるきっかけにもなりますが、何よりも「こんな人もいるんだ」と思い自分の世界観を押し広げてくれます。
いまの自分に必要なのは、自分の持つ世界観や価値観を少しずつ少しずつ広げていくことなんだと強く感じました。
元々読書が好きだったわたしは、娯楽にも読書を選択するようになりました。
そこで、大衆小説や純文学、エッセイを読み始めます。
昔は大衆小説が好きで、よく文庫本を取っては裏のあらすじを見て、一番気に入った本を買う、としていました。
ただ、不思議なことにいま大衆小説を読んでも、しっくりこなかったんです。
むしろ、心が苦しくなりました。
なんでかな?と考えたところ、行き着いた答えは「ストーリーに感情移入しすぎちゃうから」でした。
感情移入は悪いことではないと思っています。
しかし、仕事でも「クライアントにのめり込み過ぎ」と言われてるくらい感情移入してしまうタイプなので、さらっと客観的に受け流すことができない性格なのです。
当たり前ですが、感情移入することはそりゃあつかれます。
それでもクセみたいなものなので、やめなさいと止められてもやめることが難しいのです。
だから、情緒的かつギリギリ現実にあり得そうなストーリーが描かれる大衆小説は、いまのわたしには重荷になってしまうのです。
(もちろん、昔は大好きですし、きっと読むタイミングが今ではないということだけです)
むしろ、エッセイは「こんな考え方もあるんだ」とある意味受け流しができます。ステキな価値観だな、友達になりたいな、とか、そんな気持ち。
新しい人に知り合えば知り合うだけ、価値観って広がると思います。頭の先から爪の先まで全く同じの考えの人なんていないだろうし、部分が異なれば部分を構成する全体も変わってくるものだと思うからです。
大衆小説にも同じことが言えるのでは?と思うかもしれません。
ですが、フィクションは別世界で、わたしとは離れた場所にある。
わたしが歩み寄るしかなくて、友達になりたくても現実的にはなれない。
それでも想像でなれてしまうから、感情移入したくなるんですよね。
エッセイは、ノンフィクションで世界が同じで、だからこそ、リアルにいる妙な安心感を抱き、適度な距離を保ちながら没入できるというわけです。
適度な距離を保ちながら没入なんて、矛盾をはらんでいますね。
でも、そんなエッセイが、わたしは大好きです。
ちなみに、小説の中でも純文学は読めることに気づきました。
なんだかあまりにもかけ離れた世界な気がして、極端すぎて、いるのかいないのかと言われると、いない。
別世界のさらにまた別世界だから、1周回って適度な距離でいられるのかなと感じています。
本といえば、小説を挙げる人がほとんどだと思います。
でも、小説は、苦手です。
そういう同士がいるとうれしいな、というなんとも自分本位で書いちゃいました。
そして、エッセイは娯楽のつもりでしたが、実はわたしにとっては実用書に近い気がしています。
探し求めていた、価値観を広げてくれる要素が、詰まっているのです。
うーむ。これはエッセイの魅力にズブズブだ。