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戦いの土俵から降り続ける人生でありたい

日常の中で《無駄に戦ってしまうシーン》は結構あると感じる。

例えば、誰かの一言にイラっとして

そのイライラのまま反論してみたり、

意識的か無意識かは別として

『負けたくない、上でありたい』という気持ちから

ゴツゴツした対抗心を表に出したり見栄をはってみたり。

具体的な日常のシーンで言えば、

電車を降りたあとのエスカレーターへの道すがらで

狭いホームを我先にと急いだり、

横断歩道を渡るだろう歩行者より先に通過しちゃいたいと

車のスピードをあげてしまうとか。

まああげればきりがないと思うんだけども。

自分自身を振り返ってみて、

《本来なら不要な反発のエネルギー》を発する瞬間、

それは本当に日々まだまだたくさんあるなあと思う。


ある時ふと道を歩いていて、

前述の横断歩道の歩行者が自分というシチュエーションがあった。

「あ、この車より先に行きたい」

そんな自分の《我》がその瞬間出て、そのまま足を速めた。

結果特に危ないこともなく、

はたから見ても日常以外の何物でもない光景で私は車より先に渡れたのだけど、

何かちょっとした違和感が私の中に残ってしまった。

「あ、今無駄に戦ったな」

そう感じて、そんな自分がおかしく感じた。


『先に渡ってしまいたい』という《我》は、

自分自身の中の無駄な力みにつながった。

その私の、微量だけども、

でも確かに反発や攻撃のエネルギーが入った、その自然でない姿が、

横から来る車のエネルギーと調和しなかった気がする。

結果、私の中に違和感。

『もう少し車も速度を落としてくれたらいいのに』

以前の私なら何の疑問もなくそう思っていたかも。

でもその瞬間はおそらく、

私が自然に速度を落としたほうが

全体のエネルギーの流れがスムーズだったと思う。

『先に渡ってしまいたい』

自分の《我》が出たことで、

その微量の反発や攻撃のエネルギーが自分にはね返ってきた気がする。

今この瞬間、場が不調和だったな、という感覚がおそう。


生きていく中で【戦いの土俵からおり続けたい】と思う。

誰か、という人に対しての話はもちろん、
あらゆるシーンに置いて。

それは何でもかんでも自分を後回しにする、とか、
そういう話とはまた違うんだけども。

※こちら、2016年に書いた過去ブログ記事の転載です。
気に入っている記事なので、少し加筆して投稿しています。

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