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【斉藤和義 引越し】

寮で過ごした4年間が終わった。

入寮した時には、誰も知り合いいないし、心細かった。
病院みたいな壁と鉄のベッドにも慣れて、仲間ができた。ロビーでピアノを弾いてると、猫が寄ってきて、猫を膝の上にのせて弾いていた。

携帯電話も普及していない時代だ。
俺も大学2年になってやっと携帯を持つことになった。ロビー当番といって、外線を取り次ぐ係が持ち回りで回ってきた。男子棟2名、女子棟1名。19時~21時くらいで店番みたく、外線の前に陣取る。後輩を無茶苦茶可愛がっていたので、差し入れにお菓子を持っていった。
店番が終わり、抱えきれないくらいの差し入れを嬉しそうに持って帰る姿をピアノの前から見送ってた情景が思い浮かぶ。
バイトがある時以外は、ロビーにいてピアノ弾いたり、卓球やったりしていた。元卓球部で、別の棟で同じく卓球部だったE木ちゃんと一緒に真剣勝負のスリッパ卓球なんぞやっていた。ピアノを弾いて歌っていても、苦情がくることは一回もなかった。
それどころか、ロビー当番の子にリクエストをお願いされることもあった。

2年生の時に文化委員会という委員に任命された。任命というか、なりたくてなった。文化委員の最も大きな役割が寮の機関紙を発行することだった。機関紙の名前は「Voice」といった。きっと、歴史は古い。
大庭さんも機関紙のVoiceで連載を持っていたし、絶対に文化委員になりたかった。USBメモリも流通していない時代だ。原稿を書いてくれそうな人の部屋を訪ねて、寄稿をお願いする。ページ数の決めもない。手書きの絵や文章がほとんどで、それを業務用の印刷機で死ぬほど刷り、ホッチキスで止め、寮生全員に配る。全部で130部くらい。刷り終わったら、部屋の前に一冊ずつ床置きしていった。小説みたいなものを書く人もいれば、日々のかなり踏み込んだことを書く人、知恵袋的な内容を手書きとイラストで描く人もいた。そんな中、自分も文化委員として何かやりたいと思って、「週刊ラズベリー」という連載を始めた。大庭さんの影響を思い切り受けている。大庭さんは「ミルフィーユ」という機関紙を発行していた。ミルフィーユのように言葉を文章を重ねることを実験的にやっていたはずだ。(この辺の記憶が曖昧)
週刊ラズベリーは二月に1回くらい発行していたが、寄稿してくれる人も偏ってたし、ページ数稼ぎの意味もあって、4年生になるまで週刊ラズベリーとして、寄稿を続けた。

ロビーでは、バンドやったり、映画上映したり、寮の祭の「寮祭」の時には、誰がマリオカート上手いか選手権や、ぷよぷよ上手いか選手権をやっていた。ゲームやらないけど、文化的なことに特化した祭りをやりたい!と思い立ち、Voice内で「晩期寮祭」という企画をやりますという広告を出して、日時を決めて、Tシャツも作った。内容はロビーにTシャツや絵などを飾って自由に観覧するというものだった。

晩期寮祭の当日、飲みに誘われるままに寮の近くの飲み屋に行った。まぁ、誰もこないだろう。と思ったからだ。
しばらくすると、携帯に電話がかかってきた。「観に来たけど、なんでお前いないの?」先輩の上Pさんからだった。千鳥足でロビーに戻ると、色んな人が観に来てくれたみたいで、あー失敗したと思った。寮で後悔があるとすれば晩期寮祭を抜けちゃったことだろう。

4年生になり、一人また一人と引越しでいなくなっていた。俺の番が来た。荷物を全部だして、病院みたいに薄汚れた白い壁が露わになった。引越すのか。引越すんだな。

~住み慣れた この街も この部屋も さよならだ
 積み上げたダンボールは あの時より ずっと増えた
 真っ白だった壁紙も いつの間にか汚れたな~ 


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