見出し画像

数学は不完全である――近刊『クルト・ゲーデル-史上最もスキャンダラスな定理を証明した男-』プロローグ公開

2023年2月上旬発行予定の新刊書籍、『クルト・ゲーデル-史上最もスキャンダラスな定理を証明した男-』のご紹介です。
同書の「プロローグ」を、発行に先駆けて公開します。

***

プロローグ

 1970年3月。精神科医がすばやくペンを動かし、黄色い紙の罫線入りノートに、新しい患者についての事実――珍しいことも平凡なことも――を書き留めていた。アインシュタインは彼を「アリストテレス以来、最も偉大な論理学者」と呼んでいた。信号機よりノーベル賞受賞者のほうが多いと言われるプリンストンにあっても、彼の超俗的な天才性は際立っていた。40年前、24歳のときの業績で、彼は名声と世界的な注目を手に入れた。その業績とは「どのような形式的数学体系であろうと、その体系の中ですべての数学的真実を証明することはできない」という、驚くほど明晰で逆説的な定理の証明を成し遂げたことだ。
 しかしこのとき彼は、失敗と迫害という悪魔に苦しめられていた。彼を診た精神科医は次のように記述している。

 クルト・ゲーデル、64歳。結婚生活32年。妻アデーレ、70歳。子供なし。妻は一度離婚歴あり。
 来院の目的は精神鑑定(私は拒んだが)で、それが彼の「助けになる」かもしれないから。兄と妻の強い勧めによる。
 彼は自分で設定した目標に達していない、つまり“失敗”したので、他の人、特に同じ研究所にいる人々が、彼を失敗者とみなして排斥すると信じ込んでいた。無能のレッテルを貼られ、何もやっていないと周囲が気づき、問題を抱える存在として追い出されると思い込んでいる。 
 貧困に陥ることと研究所での地位を失うことへの恐怖心を持つのは、最近は何もしていない、35年間、目立った業績を上げられていない、おもしろみのない論文を4、5本しか発表していないという考えから。大きなテーマにいくつか取り組むも、そのための才能が不足しているという思い込み。だいたい一人で研究。やり方も分野も主流に反するもの。何も生み出していないこと、若いときと同じことを成し遂げられないことへの罪悪感を持っている可能性あり。

ゲーデルがフィリップ・エーリック医師の診察を初めて受けたのは、プリンストンが季節外れに暖かい日だった。日の光がさんさんと降り注ぎ、気温は夏に近い22℃まで上昇していた。しかしアメリカ独立戦争の10年前からナッソー通りに建つレンガ造りの屋敷にある精神科医の診察室の中で、彼は外套を着たまま、寒いと文句を言っていた。セーターを1枚、時には2枚も着込み、それが全体的な服装や身のこなしからにじむ古風な厳めしさと、奇妙な対照をなしていた。仕立てのいいスーツ、ぴっしりと折り目のついたズボン。額からうしろへきちんと撫でつけられた髪には白いものが混じっているが、真ん中にまるで加齢の力に逆らっているような、目立つ黒い筋があった。学者らしい大きな丸めがね、話し声は明確で、明瞭でよく響く声の、流れるような話しぶりを聞いていると、170センチと小柄で痩せ型の実際の彼より、もっと大きくて屈強な男の姿を想像する。
 彼は週2回診察を受けていたが、それはただ予約をすっぽかしたときの妻の激怒が怖いからだった。妻はその年の始めにすべてが行き詰まり始めたとき、わらにもすがる思いで、助けを求めて夫の兄を呼び寄せていた。兄のルドルフは4月第1週に到着していたが、ゲーデルはすぐ彼とも口論になった。エーリック医師はこう記している。

 妄想のような考えを話す。兄は悪意に満ちた人間で、自分を破滅させようと陰謀をめぐらしている。それは妻と家、研究所での地位を、自分から奪うためだと。また兄が冷静さを保てず、自分に怒りをぶつけるのは誤った対応だと感じている。私は兄を擁護した――兄の行動は善意によるもので、あなたに害をなすつもりはないし、そもそもあなたの妻が呼び寄せたのだと。
 私は無理強いをしてでも診察を受けさせる必要があったのだと強調した。 

 患者はすぐさま反論した。「フロイトの理論には唯物論が明示されているが、それは論理学と哲学の研究で自分が完全に否定したのと同じものだ。心は20世紀の人間が信じようとしていたよりも、身体に基づく部分ははるかに少なく、精神に基づく部分がはるかに多い。中世の思想家たちが心の病を『精神が侵された状態』ととらえていたのは正しかった。やがて真実が見出されるはずだ。とはいえ科学は今後しばらく唯物主義の方向へ進むだろう」と。
 一度、ゲーデルはエーリック医師に、そのとき受けている診察は治療とは思っていないと告げた。ただ友人と話しているようなものだと。ゲーデルの友人はみんないなくなった。1940年代から50年代を一緒に過ごしたアインシュタインにとって、彼は誰よりも親しい仲間だった。アインシュタインに言わせると、自分もそのころには大したことはしておらず、ただ「クルト・ゲーデルとともに家まで歩けるという特権を享受するため」研究室に来ているということだった。彼らの姿はプリンストンの名物的な光景だった。滑稽なほど似合わない二人が、毎日午後に研究所の広々とした芝生をともに歩いて家に向かう。彼らは性格もあらゆる面で正反対だった。もじゃもじゃの髪とだぶだぶのセーターにサスペンダーがトレードマークのアインシュタインは「穏やかなおじいちゃんみたいで、嫌う理由がまったくない」と、ゲーデルはかつて母親に向かって言った。ゲーデルが送った写真の、だらしなく「不快な」アインシュタインの風貌を見て、母親が否定的なコメントをしたため、友人をかばったのだ。ゲーデルは厳粛で生真面目、極度に痩せていて、夏の酷暑の中でも白い麻のスーツとおしゃれな中折れ帽を身に着けていた。それでも彼らは毎日一緒に歩きながら、ドイツ語で生き生きと、政治、物理学、哲学、人生について議論を交わしていた。
 しかしアインシュタインも15年前に死んでいた。もう一人、プリンストンで親しかった同僚、温和で優れた経済学者だったオスカー・モルゲンシュテルンは、ウィーンにいたころからの知り合いだったにもかかわらず、わけもなく自分を見捨てたと、患者であるゲーデルは言い立てた。「私は親友を失った」と哀れな声で言う。そして今度は、30年にわたって面倒を見てくれていた、学者の理想郷であるプリンストン高等研究所までも、自分を見捨てようとしており、クビにされると信じ込んでいた。それどころかすでにクビになっているのかもしれないとも。その決定は秘密にされ、自分に知らされていないだけではないかと。
 いくら医師が説得しようとしても、患者は鉄壁の論理で返すのだった。

ゲーデルは自分の考えが本当だとまだ信じている。それを疑ってしまうと、自らが異常であると認めることになり、生涯の仕事である研究の正当性まで揺らいでしまう。私は、彼が客観的で本当のことを語れる人物として受け入れ、論理的な結論を導いた。そうでなければ、悪魔にでも惑わされているということになりかねなかった。

 もちろん精神科医は反論もした。高等研究所の所長は彼に終身在職権付教授の地位を約束し、引退したあとも年金を払うことを保証する文書を出している。つまり「研究所での地位は永遠に保証されている」ということだ。それなのにあなたをクビにするわけがない。
 それにアインシュタインを見てみなさい、と彼の親友を引き合いに出すこともあった。彼が偉業を成し遂げたのも若いときだった。しかしあなたのように悲観することはなかった。
 またあるときはやけ気味に、食事の前にシェリーを一杯飲むよう助言した。
 医師は患者の説得を続けた。あなたは悪者を欲しがっている。その役を私にやらせたり、兄にやらせたりしている。失敗と思っていることについての罪悪感から、罰せられたいという隠れた願望に苦しんでいる。若いときに浴びた喝采と名声によって、極端に肥大化した自己に苦しんでいる。
 患者はこうした意見を一笑に付した。自分は名声など求めたことはない。そんなものは何年も前に忘れた。人生を通して、自分を突き動かしてきたものは、経済的な安定を得るという望みと、仕事そのものへの興味だけだ。しかしいまは何もできそうにないと。

彼は哲学の研究の進行を妨げる、さまざまな要素を並べ立てた。結婚生活、帳簿づけ、精神と体の健康、妻の健康、研究所の義務。ときどきしか純粋な数理論理学の問題に取り組めていないこと。歴史書を読むなどの趣味。彼の場合、導入部分にのめり込んで、本質的な部分にまで到達しないと感じているようだ。

彼の最大の業績である不完全性定理でさえ、もう慰めにはならなかった。自分の功績は否定的なもの――何かが可能であることではなく、不可能であることの証明ばかりだと、彼は悲観していた。
 ある時期には、症状がよくなり、ユーモアを備えた昔の穏やかな性格の片鱗が見え、減っていた体重も戻り、仕事まで再開して同僚たちを驚かせたこともある。週2回の診察が1回になり、11か月が過ぎたころ、彼はエーリック医師のところへ行くのをやめた。
 しかし1976年、再びすべてが行き詰まるようになった。ゲーデルはすぐにでも受けなければならない前立腺の手術を拒み、食事もとろうとせず、自分の体のことで頭がいっぱいだった。そしてまた偏執症と自己嫌悪に襲われていた。死ぬ前の年、何度か診察に訪れたときのことを、エーリック医師は次のように書いている。

病状は悪化している。彼はさらに自分を追い詰めている。1年前に研究所をクビになったと思い込んでいる。強烈な自己憎悪と、罰されることへの恐怖。ささいなことで自分を苦しめる。自分の過ちを、何の関係もない人に吐露して、自分の立場を悪くする。対応が難しい、頑固な人物だ。

数か月後の1978年1月、彼は死んだ。そのとき体重は30キロしかなかった。
 エーリック医師は最期の数日間、患者が食事を拒否したことについて、ずっと罪悪感に苦しめられていた人間の最後の自殺的行為と説明した。しかしプリンストン病院の主治医は違う見方をしている。「能動的な意思に基づく自殺的行為ではなく、無関心と諦念によるものだ」
 結局、ゲーデルが遺したのは否定的な決定だけだったのだ。

(注釈は省略しています)


***

原著:スティーブン・ブディアンスキー
訳 :渡会 圭子

「どんな数学的体系にも、永遠にたどり着けない数学的真実がある」
 
のちに数学、哲学、コンピュータ科学を震撼させることになるこの「不完全性定理」を証明したのは、当時弱冠24歳のオーストリア生まれの天才、クルト・ゲーデルだった。
 
彼はどのような幼少期を過ごし、いかにしてこの偉大な定理を証明したのか? そしてなぜ、後年は偏執症にかかるに至ったのか?
 
アインシュタインをして「アリストテレス以来の最高の論理学者」と言わしめ、フォン・ノイマンを陶酔させた天才の生涯を、プリンストン高等研究所全面協力のもと掲載された、多数の未公表写真とともに綴る。不完全性定理の簡潔な証明も収録。
 
[原著]Journey to the Edge of Reason: The Life of Kurt Gödel (W. W. Norton & Company, 2021)

【目次】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?