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量子力学の新解釈、QBismとは何か(H. C. フォン・バイヤー『QBism』松浦俊輔 訳、木村元 解説)【解説公開】

2018年3月発行、『QBism:量子×ベイズ――量子情報時代の新解釈』への、木村元氏による「解説」の全文です。

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解説:QBイズム解体

著:木村元(芝浦工業大学 システム理工学部)

客観:人間の行動・思惟には関係なく独立に存在する物質・自然。
主観:外界を知覚、意識する主体。
――『講談社国語辞典 第三版』

量子力学ほど奇妙な学問は存在しないと思う。「思う」とは書いたが、これは私の主観ではなく、科学史上、客観的な事実であると言っても過言ではない。もっとも、「奇妙という感覚自体が主観である」という指摘がくるであろうから、客観的な史実を説明した方がよいだろう。まずはじめに断っておくと、量子力学は、現代物理学の支柱であり、現代科学技術の欠かせない基盤でもある。あらゆる素粒子現象、原子の安定的構造、化学現象や磁石の仕組みといった身近な性質から、半導体、レーザー、超流動や超電導といった不思議な物性までを見事に説明する。その勢いはとどまることを知らず、近年では、量子暗号や量子コンピュータといった量子情報科学の発展が目覚ましく、量子力学は、近未来の情報通信技術の基盤ともなると期待されている。今や人類は、世界の不思議な現象を上手く説明できる「便利で万能な道具」を手に入れたと言っても過言ではない。

それにもかかわらず、量子力学を勉強すればするほど、そして、量子力学の専門家であればあるほど「量子力学を理解した気になれない」と白状することになる――これを奇妙と言いたいのである。例は枚挙にいとまがない。量子力学のゴッドファーザーと言われているボーアは「量子論に衝撃を感じない人は、それを理解していないのだ」と断じたし、『ファインマン物理学』でも有名なファインマンも「誰も量子力学を理解していないと言ってもよいだろう」と語っている。量子力学の創生にも貢献したアインシュタインも最後まで量子力学(の完全性や解釈)に反対し、基礎方程式を発見したシュレーディンガーに至っては、「もし、この忌々しい量子飛躍(※1)に固執しなければならないのであれば、量子力学にかかわったことを後悔する」とまで言っている。そしてこの奇妙な状況は、現在になって衰えるどころか、ますます高まっているのである。

※1) 観測をしたときに起こる量子状態の非因果的な発展。いわゆる波束の収縮(6章参照)。

結局のところ、多くの物理学者は、量子力学は「使える」道具ではあるが、それを「理解」することが難しいと感じている(※2)。誤解を恐れずに言うと、量子力学は一種のオラクル(神託)とたとえることもできる。オラクルに適切に問いかけると、正しい答えを教えてくれるようになっている。しかし、果たしてそれで自然を理解したことになるのだろうか? 道具として使えることと、それを理解することには大きな隔たりがあるのではないだろうか? 量子力学が語る世界像に関する解釈には、なお統一的な見解がないのが現状である。

※2) このことは、次のようにたとえるとわかりやすいかもしれない。昨今の多くの子どもたちは、スマートフォンを使いこなしている。どのように操作すれば、電話ができたり、インターネットやゲームができたりするのか、把握している。ところが、だからといって、センサーの仕組みや電子回路の中身まで理解している子どもたちはほとんどいないだろう。

本書の主題である「QBイズム(QBism)」は、このような現状を打破するために、新しく打ち出された量子力学の解釈の一つである。その基本精神は2002年、量子力学の基礎や量子情報科学の分野で活躍するケイブス、フックス、シャックにより提唱され、その後、多くの研究者(※3)による支持を得て、現在では「量子ベイズ主義」と呼ばれている学派を形成している(※4)。その最大の特徴は、量子力学に現れる「確率」(正確には、量子状態)の概念を、「客観的」なものではなく、「主観的」なものとして解釈する点にある。世界をそれぞれの観測者(行為主体)を通じた目で捉える――必然的に、世界の記述は主観的になるという。

※3) たとえば、ツァイリンガー、スペッケンス、ブルックナー、バブ、ピトフスキー、マーミンなど。
※4) 本書の主題であるQBイズムは、フックスやシャック、また、近年ではマーミンによって支持されている考え方であり、本書や本解説で取り上げるのも原則としてQBイズムとする。

こう言うと、何やら怪しい本に思えるかもしれない。多くの読者は、「自然科学は、主観的なものを排除し、世界の客観的な記述を追求するものではないか?」と訝しく思うことだろう。そして、そっと本を閉じようとしているかもしれない。

だが少し待ってほしい。そのように思った読者にこそ、本書(そして、原論文[1])を精読してほしい。実際量子ベイズ主義は、量子力学の伝統的な解釈である「コペンハーゲン解釈」(本文付録参照)の多くの精神を引き継いだ亜種版と理解することができる。とりわけ、量子力学の不思議な現象を積極的に活用し、自然理解の情報理論的な視点をこれまでになく際立たせている量子情報科学[2]の影響を強く受けて発展したものである。さらには、宇宙物理学で有名なホイーラーが唱えた「情報から物へ(It from bit)」や「参加型宇宙(Participatory Universe)」という、新しい自然観を形成する壮大なプロジェクトの一環でもある[3]。このように、量子ベイズ主義は、多くの物理学者が「自然の正しい見方」の候補として大真面目に論じ合っているものであり、注目に十分値する。以下本解説では、本書の補完として、QBイズムについてできるかぎり客観的な視点で解説を試みる。本解説を書くにあたり、QBイズムの創始者の一人であるフックス氏とはメールで様々な議論をさせていただいた。フックス氏には、膨大な資料を教えてもらい、私の稚拙な質問や議論にも快く付き合っていただいたことを深く感謝する。もっとも、本解説で主張していることが同氏の考えであるわけではなく、不正確な言明や誤りは、すべて私の責任であり、読者の判断をあおぎたい。また、時間の都合もあり、この解説文には、フックス氏とのやり取りはほんの一部しか反映していない。とくに、本解説の後半で紹介するQBイズムに対する(やや批判的な)考察に関しては、現在も議論を継続しており、いずれ別の機会で述べたいと思う。

【本書の読み方の例】
初めて量子力学に触れる読者は、まえがき、ならびに、第Ⅰ部から読むべきである。あるいは、本文に入る前に、本解説や訳者あとがきを読んでもよいだろう。すでに量子力学の不思議さなどに精通している読者や専門家は、第Ⅰ部は読み飛ばし、第Ⅱ部、もしくは、第Ⅲ部から読むことをお勧めする。QBイズムの考えに懐疑的な読者は、本解説を先に読んでから、本書ならびに原論文に目を通すことをお勧めする。

世界は非決定的にできている
QBイズムを検討する前に、量子力学の伝統的な解釈では――古典物理学とは異なり――物理現象の非因果性、すなわち、事象が非決定的に生じることを認めることを確認されたい。量子力学が予言するのは、観測結果に対する確率である。そう、あの「サイコロ投げ」や「天気予報」などで現れる「確率」と同じである。量子力学は、たとえば「電子の位置(場所)を観測したとき、0.2(20%)の確率で、この位置(正確にはとある区間)に現れる」ことを正確に教えてくれる。以下、我々が注目するのは主に「確率」をめぐる解釈である。

実際、QBイズムが伝統的なコペンハーゲン解釈と大きく袂を分かつ点は、主に確率の解釈の仕方にあるようだ。伝統的な解釈では、確率を頻度解釈に基づき客観的なものと捉えるのに対し、QBイズムでは、量子力学に現れる確率を――たとえボルンの確率規則で予言される確率であったとしても――ベイズ確率(主観確率)として、すなわち、行為主体の信念の度合いとして解釈するのである。以下では主にこの点に絞り、QBイズムがいかにして確率に主観性を導入するのかまとめてみたい。

素朴な実在論の断念

語りえぬものについては、人は沈黙しなければならない
――ウィトゲンシュタイン

量子力学は、粒子の位置や運動量などの観測をしたとき、個々の観測値の出現確率を驚くほどの精度で予言することができる。他方で、量子力学は「観測をしていない」ときのことは、一切語らないことを注意しなければならない。たとえば「観測をしていないときの電子の軌道」などを尋ねても、慎重な物理学者であれば、何も答えることはないであろう(※5)。

※5) 少し専門的な注意:ここで、シュレーディンガー方程式を持ち出すことは危険である。確かにシュレーディンガー方程式は、孤立量子系の因果的時間変化を、しかも、観測をしていないときの時間変化を如実に語っているように思われる。ただし、あくまでもシュレーディンガー方程式が語っている量子状態(波動関数)は、「仮にその時刻で測定を行ったときに何が起こるのか」という情報の総体であることを思い出さなければならない。

こう言うと「観測をしていないときのことを語れない量子力学は、未だ完成していないのではないか?」と考える読者もいるかもしれない。実際、1935年アインシュタインは、ポドルスキーとローゼンとともに、巧みな思考実験を考案して、量子力学の完全性を攻撃した(EPRパラドックス、14章参照)。通常は確率で記述されるサイコロ投げを例にしても、サイコロを投げる際の位置や速度、角度などの隠れた情報(以下、隠れた変数)を詳細に調べれば、どの目が出るかを決定的に予言することができるだろう。すなわち、確率とは「情報の不足」を反映したものであり、隠れた変数を補うことによって、不確定度を消すことができるという考えである。いわゆる、ラプラスによる「確率の無知解釈」である[4]。このような隠れた変数理論は、観測とは無関係に物理量の存在を想定する実在論を含むより広い考え方であるため、以下では(広義の)実在論と呼ぶことにする。実在論は、古典物理学のような客観的な自然像を描いた、いわば常識的な考え方ということもできる。量子力学にも、未だ見つかっていない隠れた変数が存在し、確率を無知解釈に基づいて理解することはできないだろうか?

驚くべきことに、現在では、自然な仮定を満たすいかなる実在論も、量子力学を、ひいてはこの世界を説明することはできないことがわかっている。ここで自然な仮定とは、主として局所性を指している。平たく言うと「遠くの影響が瞬時には伝わらない」という自然な要請である。1964年、ベルはあらゆる局所的な実在論が満たす普遍的な性質(14章では、GHZ状態の例が紹介されている)を見出し、量子力学はそれを満たさないことを証明してみせた。重要なことに、この性質の成否は直接実験で検証できるものであり、1980年代以降に行われている精力的な実験の結果、この性質は――量子力学が予言したとおり――満たされないことが示されている。すなわち、客観的な自然観を提供すると期待された局所的な実在論では、この世界を説明することはできないのである。局所性の重要性(※6)を誰よりも認識している物理学者は、古典物理学のような素朴な実在論を放棄せざるを得ない(※7)――量子力学が「観測をしていないときの実在」を語らないのには、こうした理由があるのである。かくして量子力学は――観測をしたときのことしか語らないにもかかわらず――完全な理論であると考えられている。量子力学に現れる確率は、ラプラスの無知解釈のような単純なものではなく、真のランダム性を含んでいるのである。

※6) 局所性は地味なものに思われがちだが、自然を理解する上で極めて大切な要請である。本書の14章、15章でも説明されているが、ここでは次のように考えればその重要性は納得できるだろう――我々人類は、広大な宇宙からすると、点のようなごく局所的な位置(地球)に束縛されている存在である。そのため、仮に自然法則が局所的にできていなかったら、いかなる実験をする上でも常に宇宙全体の影響を考慮しなければならなくなる。その場合、局所的な存在である我々人類には、自然界の秩序を見出すことすら難しくなってしまうだろう。幸いにして、この世界は今のところは局所的に説明できるようになっている。とりわけ相対性理論によると、いかなる物理的影響も、光の速さ(1秒間に地球を7周半するほどの速さ)を超えて伝わることがないこともわかっている。
※7) 今でも、非局所性(たとえば、付録のパイロット波など)を受け入れることで、実在的な解釈を追求する学派もある。興味のある読者は、たとえば[5]を参照。

なお、現在では、局所実在論では説明のつかない状態はエンタングルド状態(もつれ状態、絡み合い状態)と呼ばれ、量子コンピュータや量子暗号、量子テレポーテーションなどの様々な量子情報処理に活用できることがわかっている[2]。

それでは、世界の客観的な記述を復活させることはできないのだろうか? 局所実在論の困難を乗り越えて、なお客観的な統一的自然像を得ることができるのだろうか? この問題は、極めて壮大かつデリケートな科学哲学の問題でもあり、早急な結論を出すことはできない。実際伝統的なコペンハーゲン学派(※8)の間でも、認識の相違がある。そこで、以下ではQBイズムが主張する確率解釈に対する「客観性の否定」に焦点を絞って論じたいと思う。

※8) 一つ注意をしておくと、コペンハーゲン解釈は、一つの定まった思想として確立しているわけではない。主にボーアやハイゼンベルク、パウリといった学者たち、ならびに、それ以降発展した共通認識の最大公約数として、あるいは、ときに最小公倍数的な拡大解釈として捉えられることまである。そのため、コペンハーゲン解釈とQBイズムとの明確な境界線を引くことも難しい[1]。

実際、多くの物理学者たちは、少なくとも「頻度主義」を採用することで、確率解釈に客観性を担保している。これに対しQBイズムでは、確率を徹頭徹尾主観的に解釈することで、むしろ積極的に世界の客観的記述を放棄するのである。

量子状態は客観的に定まるか?
物理学では、対象とする物理系の物理的特性を記述するために「状態」の概念が重要な役割を果たす。たとえば、「あなた」という物理的対象に対し、「調子が良い」や「調子が悪い」などの様々な状態を考えることと同じである。量子力学では、物理系の量子状態を数学的に波動関数(一般的には、密度行列)により記述する(波動関数の概念に不慣れな読者は、本節を読む前に、第Ⅰ部を一読されたい)。

波動関数には、あらゆる物理量の測定を行ったときの測定確率を計算することのできる全情報が含まれている。実際、状態の操作主義的な定義として「あらゆる測定を行ったときの、物理的応答(量子力学では確率)を定めるもの」(※9)を採用することができる。ひとたび波動関数(ならびに測定)を固定すると、ボルンの確率規則を通じて、量子状態を条件とする測定確率が一意に定まる。なお、この点に関しては、コペンハーゲン解釈もQBイズムも同じ立場を取っている。この意味において、QBイズムにおいても、自然法則の客観的記述を保証するわけである。ところが、そもそも、量子状態は一意に定まる客観的なものと考えてよいだろうか? 万が一、量子状態が行為主体に依存して変わりうるのであれば、同じボルンの確率規則を通じて得られる確率も、客観的なものということはできない。すなわち、量子力学が予言する確率は――少なくとも量子状態の割当てに依存するという意味において――主観的になる。

※9) 正確には、同一の物理的応答を示す物理系準備に対する同一視をしたもの。

コペンハーゲン解釈の創始者とも言えるボーアは、量子力学解釈の土台に決定論である古典物理学(古典的概念)を置くことにより、主観の排除に極力努めている[6]。物理系の状態は、それを準備する(実験装置)の設定により定まることを踏まえ、その準備自体は「古典物理学によって決定的に定めることができる」ことを要請する。つまり、量子状態の準備の方法に関して客観的記述を認めるのである(※10)。それでは、状態準備の客観的な記述に基づき、量子状態を(究極的(※11)に)一義的に定めることはできるのだろうか? 実は再び「局所性の要請」をすると、状態の割当ての一義性には不自然さが残されてしまうことがわかる。これを理解するために、互いに遠く離れた二つの粒子対AとBで、以下の性質を満たす量子状態(エンタングルド状態)を考える:粒子Aの位置を測定すると粒子Bの位置が確定し、粒子Aの運動量を測定すると、粒子Bの運動量が確定する。これは、先に紹介したアインシュタインたちに導入された量子状態(EPR状態)である。

※10) シュレーディンガーに宛てた手紙の中で、ボーアは次のように述べている:「実験の古典的記述が避けられないことは、現象について何かしら記述することが可能であるために、あらゆる測定設定の記述に対し、装置の空間的配置や時間的な機能を含まなければならないことを考えれば明らかに思われる」。
※11) ここで「究極的」と書いたのは、実証主義、あるいは、道具主義的な観点からは、非一意的状態を割り当てることは、次のような例においてしばしば行われるからである。たとえば、私がコイン投げをして「表が出たらスピンアップ状態、裏が出たらスピンダウン状態の電子を準備した」とする。コインの結果を知っている私は、スピンアップかスピンダウンのどちらかの純粋状態を採用するが、コインの結果を知らない観測者は、これらの確率混合としての密度行列を割り当てるだろう(本義混合)。しかし、このような情報の無知は、情報の補完によって取り除くことができる、いわば二次的な概念である。

ところで、コペンハーゲン解釈によると、実際に測定をすると、波動関数は収縮することになる。シュレーディンガーが忌み嫌った「量子飛躍」のことである。ここで、この収縮の仕方は、何を測定するかに応じてまったく異なるものになることに注意する。たとえば、粒子Aの「位置」を測定するのであれば、Bの状態は「位置の確定した状態」に収縮するのに対し、粒子Aの「運動量」を測定するのであれば、Bの状態は「運動量の確定した状態」に収縮する。そこで、アインシュタインたちは、局所性の要請から、粒子Aに行われる測定行為が、遠くにある粒子Bに物理的影響を与えることはないと考え、測定に先んじて粒子Bの実在(隠れた変数)を考えなくてはならないと考えた。さて、量子力学によると、位置が確定した状態と運動量が確定した状態は互いに両立しないことが知られているため(不確定性原理)、量子力学にはこれらの実在を取り込む余地がない。これらのことから、彼らは量子力学は不完全であると結論づけたのであった。しかし、この一見魅力的な考え(局所的な実在論)が、ベルによって否定されたことはすでに説明した。それでは、遠い地点で行われた行為が瞬時に伝わるような、非局所性を認めなければならないのだろうか? QBイズムは、量子状態の客観的で一義的な割当てを放棄することにより、局所性の要請を擁護する(※12)。実際、粒子Aを測定する行為主体(アリスと呼ぶ)にとっては、量子状態は上述のように変化するが、これはあくまでもアリスにとっての粒子AとBに関する知識である。つまり、粒子Aの位置(あるいは運動量)を測定したアリスには、今後粒子Bの位置(あるいは、運動量)が測定されるときにその測定値が何になるかを確信できる、ということを意味しているにすぎないのであって、決して物理的な影響が遠隔地に伝わったわけではない。実際、粒子Bを測定する異なる行為主体(ボブと呼ぶ)がアリスの測定の種類や測定値を知らないのであれば、ボブは粒子Bに異なる量子状態(確率混合の状態)を割り当てることになる。

※12) なお、このような考え方(ならびに、EPR状態)は、アインシュタインたちに先行して、1931年にハイゼンベルクの弟子であったワイツゼッカーが採用していたことを記しておく。ワイツゼッカーは後年ヤンマーへの私信の中で次のように述べている:「ハイゼンベルクにせよ私にしろ、いずれもこうした事態をこの三人の著者たち(アインシュタインたちのこと)の考えたようにパラドックスとはみなしておらず、むしろ量子力学における波動関数の意味を具体的に示してくれる歓迎すべき例とみなしていた」([7]の6章)。

このように、同じ物理系であっても、必ずしも客観的な状態記述が自然とはならない例がある。同じボルンの確率規則に基づく確率であっても――量子状態の割当ての相違による――異なる確率の割当ては起こりえるのである。

頻度主義の再考
QBイズムの確率解釈はさらに急進的である。仮に同じ量子状態の割当てを行っている場合であっても、量子力学に現れる確率はすべて「主観的に」解釈するべきと主張する。とりわけ、確率の頻度解釈をまっこうから否定するのである。

ここで、確率の解釈について簡単におさらいをしておきたい。まず、確率の数学的理論では、通常コルモゴロフの確率論として知られる厳密な公理体系が完成している[8]。確率は、人文科学や社会科学を含めた幅広い分野に広がっているが、多くの場合はコルモゴロフ流の確率論を理論の土台として採用しており、これにチャレンジするという野心的な話はまれである。ところが、同じ確率論に基づいていても、確率の解釈に相違が生じうる。この事情は、量子力学において、同じ数学的理論に基づいていながら様々な解釈が生じることとまったく同じである。

これまでにも何度か登場した頻度主義では、確率を事象の頻度に基づき解釈する。あるランダムに生起する現象の実験を繰り返し行うとき、その試行回数をn、事象Eが生起した回数をn_Eとして、その比n_E/nを頻度と呼ぶ。たとえば、同一のサイコロをn=100回投げ、そのうち偶数の目(2、4、6の目)が出た回数がn_E = 46回であったとすると、その頻度は46/100 = 0.46となる、といった具合である。頻度主義では、試行回数を十分大きくとると、この頻度がある一定の値に漸近すると考え、それをもってして確率とするのである。すなわち、事象Eが起こる確率(Probability)は、Pr[E]≃n_E /n、ただし、nは十分大きいとする(有限頻度主義)。あるいは、試行回数の無限大極限としてPr[E] = lim_(n→∞)n_E /nと定義する(※13)。たとえば、(歪んだ)コインを投げるとき、表が出るという事象Eの確率がPr[E] = 0.8であるとしよう。頻度主義はこのことを「十分たくさん試行をすれば、頻度が0.8に近づくことが期待される」と考える。試しに手元のコンピュータを用いてこのコイン投げのシミュレーションを行ってみた結果、n = 10回のときの頻度は0.6、n = 1,000回のときの頻度は0.814、n = 1,000,000回のときは0.800215となり、理論値0.8に漸近する様子が観測された。また、頻度解釈がコルモゴロフ流の確率論に従うことは、頻度の性質から極めて自然に導出される。逆に、コルモゴロフの確率論を起点とすると、試行回数を増やしたとき頻度が確率に近づくという「大数の法則」が厳密に成立することから、コルモゴロフの確率論は、頻度解釈を厳密化した数学モデルとして受け入れられているのである。

※13) なお、本文中では、「頻度主義」と以下に説明する「場合の数の比で定義する初等的な確率(古典確率)」をごっちゃにした説明が見受けられるので、十分注意されたい。 初等教育では、確率を「場合の数の比」として次のように定義する:全事象の場合の数がN、事象Eの場合の数がN_E(これらは、頻度主義の説明で用いたnとn_Eとはまったく異なることに注意する)のとき、事象Eの生じる確率はPr[E]=N_E /N、ただし、根源事象たちはどれも同様に確からしいとする。たとえば、サイコロ投げで「E=偶数が出る」という事象の確率を求めるとき、全事象は{1の目、2の目、3の目、4の目、5の目、6の目}なのでN = 6、偶数が出る事象はE={2の目、4の目、6の目}であるから、N_E = 3、したがって、確率はPr[E] = 3/6 = 1/2となる。この考え方は「確率の定義」としてふさわしいだろうか? ここには二つの大きな欠点がある。一つは、この定義では測定値が無限通りある場合(たとえば、電子の位置や運動量の測定)には適用できないことである。もう一つは、同様に確からしいという謎めいた呪文にある。実際、「同様に確からしい」の正確な定義は、「確率が等しい」ということになる。したがって、確率概念を定義しているのに、はじめからその概念を使用していることになってしまい、いわゆるトートロジー(循環論法)になっている。そもそも、同様に確からしくない場合(たとえば、歪んだサイコロを投げるなど)では、まったく使用できない定義であることを注意しておく。

量子力学が予言する確率も、通常は頻度主義に基づいて解釈する(※14)。少なくとも、量子力学の計算結果を実験検証する際には、多数回実験を行って得られる頻度とボルンの確率規則を照らし合わせることになる。

※14) 細かいことを述べると、コペンハーゲン解釈は確率解釈を受け入れるが、確率の解釈を頻度主義とすることまで限定するわけではない。むしろ、頻度主義を明示したのは、たとえばアインシュタインであり、これは通常コペンハーゲン解釈と区別される(「統計的解釈」)。なお、量子力学に確率解釈を導入したボルン自身は、しばしば統計的解釈を受け入れることを言明していた(たとえば、[7]の10章を参照)。

ところが、QBイズムでは、頻度解釈を量子力学解釈の基礎と置くことには無理があると考えているようだ。たとえば、頻度解釈では(仮想的にせよ)何度も同じ実験を繰り返すことができる(※15)ことを前提とするため、それができないような現象に、頻度解釈を適用することはできない。量子力学が主に対象とする素粒子や原子、化学現象などでは、繰り返し実験が可能であるため、実際的な問題は生じない。ところが、宇宙の歴史や一人の人間の人生など、おそらく一回しか起こらないような現象であっても、自然科学の立派な対象となるものである。また、頻度主義の確率の定義自体にも曖昧性が残されている。確率を頻度で近似すると言っても、いったいどのくらい多くの試行回数を重ねればよいのだろうか? 通常は、大数の法則がこれに答えてくれると考えるのだが、ここにはちょっとした循環論法が入り込む。平たく言うと、「頻度と確率が同じになる確率をいくらでも1に近づけることができる」といった言い方をするからである。つまり、確率の解釈をしているのに、「頻度解釈ができる確率が高い」と確率を使用しているのである。より定量的な主張としては、「任意の小さなδ> 0(誤差)と、任意の(小さな)ε> 0(有意水準)に対し、ある回数n以上試行をするのであれば、頻度と確率の差がδ以下に収まる確率を1-εよりも大きくすることができる」といったややこしい言い方となる。通常の統計学や自然科学では、有意水準を0.05や0.01などに約束することでこの問題に対応する。ところがこの有意水準は、それこそ客観的なものということはできず、むしろ社会的なコンセンサスといったところであろう。

※15) 通常は独立同一分布、量子力学では、独立で同一な量子状態の準備を想定する。

頻度主義の他の欠点は、本書の第Ⅱ部やたとえば[9]を参照されたい。このようなことを鑑みると、概念レベルで頻度主義を自然科学の土台とするのは難しいのかもしれない。

個人の信念の度合い――ベイズ確率
かくして、量子力学に現れる確率を無邪気に客観的に解釈することについては反省しなければならないのは確かである。それでは理論が予言する「確率」をどのように解釈すればよいのであろうか? QBイズムでは、確率の客観的記述を放棄し、「主観確率(ベイズ確率)」として考えることを提唱する。すなわち、確率を個人(行為主体)の「信念の度合い」として解釈するのである。ベイズ確率は、個人の主観であるために、同じ事象に対しても、異なる確率(信念の度合い)を割り当てることが許される。たとえば、宇宙人(知的生命体)が存在するかに関して「10%くらい?」と懐疑的な人もいれば、あるいは「90%はいる!」と信じている人もいるだろう。

ところで確率が信念の度合いにすぎないのであれば、確率として何を割り当ててもよいのであろうか? そもそも、信念の度合いがコルモゴロフの確率論に従う必要があるのだろうか? たとえば、通常の確率は0以上1以下(0%以上100%以下)を満たさなければならないが、「200%の確率で成功してみせる!」などと息まいても何の問題もないのだろうか?

科学、そしてQBイズムで現れる主観確率は、合理的な行為主体の信念の割当てを採用することでこの問題を回避する。たとえば有名なダッチ・ブック論証(たとえば[12]、また、本解説の註17を参照)は、「確率(信念の度合い)の割当てをコルモゴロフの確率論に反する仕方でしてしまうと、必ず損をする賭けが構成できること」を示すことができる。言い換えると、(損をしたくない)合理的な行為主体は、信念の度合いを通常の確率規則に従って割り当てなければならない。このようにして、主観確率もコルモゴロフ確率論に従う確率解釈の一つとなる。そもそもQBイズムでは、ボルンの確率規則を含む通常の量子力学の数学的構造を採用するため、QBイズムに現れる確率も――決して何でもありではなく――通常の確率論に従うものであることを注意しておく。

なお、QBイズムとは関係なく、ベイズ確率に基づくベイズ統計は、昨今社会科学から工学、IT分野に至るまで幅広い分野で活用されていることを記しておく。とくに、その目的が発見法的なものにある場合――間違ってもよいから、正しい答えにたどり着きたい場合――、ベイズ更新を繰り返し用いることにより、きわめて強力で使える道具となっている(ベイズ確率の歴史や解説は、たとえば[10]を参照)。

主観確率は量子力学を説明できるのか?
それでは、QBイズムの主張するように、量子力学の確率を主観確率として考えることは自然なのであろうか(※16)? 本書では、QBイズムによって多くの量子力学のパラドックスが解決できると謳っているが、必ずしもすべてには賛同できないと私は思っている。まず、本書(11章)では、シュレーディンガーの忌み嫌った「波動関数の収縮」の謎がなくなると主張している。なるほど、確かに行為主体の信念の度合いを割り当てるQBイズムでは、測定によって情報(知識)を得ることにより、新しい状態に更新することはごく自然な考えなのであろう。たとえば、中身が見えないブラックボックスに入っているサイコロを想像してほしい。ふたを開ける前は、どの目が出ているか知らないので、サイコロの各目が出る確率にはすべて1/6と割り当てる。そこで、ふたを開けて見ると「4の目」が出ていたとしよう。すると、サイコロの目の確率は「4の目」が出る確率が1(確実)に、その他の目が出る確率を0と再割当てをするであろう。何も量子力学やベイズの公式を持ち出さずとも、情報取得によって確率を更新することは、ごく自然な考え方である。波動関数の収縮も、行為主体の情報取得の結果起こる自然なものと考えられる。残念ながら、量子力学の波動関数の収縮の不思議さは、このような考え方で解消できるほど単純なものではないのである。これを理解するために、量子力学における波動関数の収縮は、次のような不可解な現象を含んでいることに注意しなければならない。たとえば、ある行為主体にとって、その位置がある程度確定している電子に着目しよう。この電子のさらなる情報を得ようとして、電子の運動量を測定してみると、運動量の確定した状態に収縮することになる。運動量の情報を得たのだから、この状態更新は自然であろう。QBイズム万歳!

※16) なお、確率解釈には、頻度解釈や主観解釈以外にも、論理解釈や傾向解釈などが挙げられる(たとえば、[11]を参照)。ここでは、QBイズムに従い、主観確率にのみ言及する。

ところがこの波動関数の収縮は次の事実も含意しているのである。せっかく電子の位置についてある程度の情報を持っていたにもかかわらず、運動量の測定後には、位置に関する情報が完全に失われてしまうことになるのである。これは、有名な不確定性関係から得られる帰結である。すなわち、量子力学は、ある物理量の測定が、不可避的に、他の物理量(とくに、相補的な物理量)を乱すという普遍的な性質を備えている。

本書が主張するように、単純に物理量の測定による情報取得で状態が更新されたと考えても、なぜ他の物理量が乱されてしまうのかという謎には答えていない。

続いて本書では、QBイズムは「ウィグナーの友人」(11章参照)を解決すると主張している。詳細は本文を読んでいただきたいが、これは「測定結果の客観性」に対するパラドックスと言える。簡単に述べると、波動関数の収縮が「ウィグナーの友人(以下、友人)が観測を行ったとき」に起こるのか、あるいは、「ウィグナーが友人に測定値を聞いたとき」に起こるのか、という問題である。確かにQBイズムでは、ウィグナーとその友人は異なる行為主体であるため、それぞれに異なる波動関数の収縮が起こっても問題は生じない。つまり、QBイズムでは、ウィグナーの友人はそもそもパラドックスではないのである。

これには一見魅力的な考えが含まれているが、行為主体の定義が明確に与えられていない点に問題が残されている。QBイズムの提唱者であるフックスによると、QBイズムは「唯我論」ではないと宣言されているため、複数の独立した行為主体を容認していると思われる。すると、ウィグナーにとって、友人自体、原子でできた物体であるため、ウィグナーはそれを量子力学的に取り扱うべきなのであろうか? それとも、友人も、独立した自由意志を持つ行為主体として扱うべきなのか? このことは、ウィグナーの友人の問題のように、複数の行為主体を扱う際、避けては通れない問題であろう。実際、量子力学を論じる際、観測者(行為主体)にとって「どの物理量を測定するのか?」に関する自由度が残されていることは、通常自由意志の名のもとに、認められることが多いことを記しておく。また、仮に独立した意思を持つ行為主体の存在を認めたとしても、QBイズムは「量子力学に従う法則」と「行為主体の行動原理」という二元論を認めることになる。これは、コペンハーゲン解釈が抱える二元論(シュレーディンガー方程式と観測行為)の問題をそのまま継承していると思われる。

同様のパラドックスであるシュレーディンガーの猫に関して(12章参照)は、残念ながら私のつたない理解力では、いかなる理由で猫が救われたのか理解することはできなかった。

ここで意思決定の問題について触れておきたい。この問題は、QBイズムのみならず、主観確率として確率を扱う際に、合わせて論じる必要があるものである(※17)。たとえ「同じ確率」を割り当てたとしても、どのような意思決定をするかは、その戦略に応じて変わりうることに注意する。たとえば「明日雨が降る確率が30%」であったとしても、「傘を持っていく」と判断する人もいるし「持たない」と判断する人もいるのである。さて、先にQBイズムもコペンハーゲン解釈と同様にボルンの確率規則に従わなければならないことを述べた。フックスは、「量子力学の確率は、自然の記述的(Descriptive)なものではなく、合理的な行為主体が従うべき規範的(Normative)なもの」である点を繰り返し強調している[1]。それでは、どのような意味で規範的であることを保証するのであろうか? たとえば、宗教や道徳であっても、立派に規範的なものとなりうるであろう。QBイズムが自然科学として、規範的なものと主張するためには、確率の割当てを行った行為主体が、それに基づき意思決定をどのようにするのかまで論じなければ、答えられないのではないだろうか? (なお、この問題に関しては、フックス自身とのやり取りを継続中である。)現行のQBイズムでは、量子状態割当ておよびボルンの確率規則に割り当てられる主観確率の規範的意義に関して、とくに曖昧な点があると感じている。

※17) 少し脱線をするが、関連する事柄として先に触れたダッチ・ブック論証にも、意思決定に関する問題が含まれていることを指摘しておく。ダッチ・ブック論証では、次のような賭けごとを考える。「コイン投げをして表が出たら、賞金S = 1000円をもらえる。この賭けに参加するためには、参加費F = 300円を払う必要がある」。果たして「この賭け」に乗るべきか? 降りるべきか? ダッチ・ブック論証では次のように考える。ある行為主体にとって、コインが表になる確率(信念の度合い)が仮にP = 0.5であったとすると、PS = 0.5×1000 = 500円賞金をもらえることが期待できるので、参加費F = 300円を払ってでも乗るべきであると。すなわち、合理的な行為主体者は、PS≥Fを賭けに乗る判断基準として採用する。このことを認めると、確かにコルモゴロフの確率論に反する確率の割当ては、確実に損をする賭けごとの設計を許すことが示される。かくして、ダッチ・ブック論証は、合理的な行為主体は主観確率を通常の確率論に従うように割り当てることを導出してみせるのである(たとえば、[12]を参照)。 それでは、合理的な行為主体は、なぜ参加基準としてPS≥Fを採用するのだろうか? なるほどPSは、賞金の期待値である。そして、大数の法則は、この賭けを繰り返し行うと、いくらでも精度よく賞金額の平均値(賞金総額を、賭けを行った回数で割った値)に近づくことを保証する。すなわち、この参加基準を満たす場合、何度も賭けを行うことによって、確実に儲けることができることが保証される。ところが、これでは、まさに頻度主義の考察に基づく論証となってしまっている!

展望
本書で主張されるように、また、本解説からも異なる視点で説明してきたように、量子力学は、この世界を単純な客観的な自然像として捉えることが難しいことを伝えている――少なくとも我々は、古典物理学のような単純な局所実在論の楽園に回帰することはできないのである。したがって、QBイズムのように、物理学も何かしらの方法で「主観」に向き合わなければならない時期に来ているのかもしれない。実際、人間であっても、例外なく原子でできている物質であることはまぎれもない事実である。そのような人間が、科学を営み、技術を生み出していることは、やはり、この宇宙で起こっている物理現象の一部なのである。何より、私にとっては、この世界は「私から見た世界」なのであって、そして、本書を読んでいる読者(あなた)にとっては、「あなたから見た世界」なのである。QBイズムが真面目にこの問題に取り組むのであれば、各行為主体から見た世界モデルを提供し、そして、それらの連関性を理論構造として整合的に取り入れる必要があると思う。結局のところ、ロベリが言うように、説得力のある解釈とは「量子力学の形式に合理的な解釈を付与するのではなく、実験で動機付けられた仮説から、その形式(量子力学の数学構造)を導出する」[13]ことのできるものであろう。この試みは、QBイズムも含め、また、解釈とは独立した操作主義的な観点からも、現在世界中で盛んに行われている[14]。また、逆に、このような基礎的な考察は、量子コンピュータや量子暗号、量子テレポーテーションなどの情報技術革新にも繋がっており、互いに影響を与えながら発展している。このように、基礎と応用が両輪となって発展する様子は、今後も科学哲学や科学の基礎論としての健全なケースモデルとなるだろう。

最後に、量子力学の産みの親の一人であるプランクの言葉(18章冒頭に引用)を改めて引用しておきたい:

人間の古くからある謎の一つ。人間の意志の独立が、われわれが、自然法則の厳格な秩序に従う宇宙の不可分の部分であるという事実とどう調和しうるのか。

量子力学の謎が、そして、QBイズムのような解釈が、この問題に真面目に取り組む契機を与えていることは確かであると思う。


参考文献
[1] たとえば、C. A. Fuchs, "QBism, the perimeter of quantum Bayesianism." arXiv:1003.5209 (2010); ibid. "Interview with aquantum Bayesian." arXiv:1207.2141 (2012); ibid. "Notwithstanding Bohr, the Reasons for QBism." arXiv:1705.03483 (2017);C. A. Fuchs, David Mermin, and Rüdiger Schack, "An introduction to QBism with an application to the locality of quantummechanics." American Journal of Physics 82.8 (2014): 749-754.
[2] 石坂智、小川朋宏、河内亮周、木村元、林正人『量子情報科学入門』、共立出版、2012年。
[3] 佐藤文隆『佐藤文隆先生の量子論 干渉実験・量子もつれ・解釈問題』、講談社ブルーバックス、2017年。
[4] ラプラス『確率の哲学的試論』内井惣七訳、岩波文庫、1997年。
[5] D. Bohm, B. J. Hiley, The Undivided Universe: An Ontological Interpretation of Quantum Theory (Routledge, 1995).
[6] ボーア『ニールス・ボーア論文集〈1・2〉』、山本義隆編集・翻訳、岩波文庫、1999年。
[7] マックス・ヤンマー『量子力学の哲学〈上・下〉』、井上健訳、紀伊國屋書店、1983年。
[8] A・コルモゴロフ『確率論の基礎概念』、坂本實訳、ちくま学芸文庫、2010年。
[9] A. Hájek, "Mises Redux"—Redux: Fifteen arguments against finite frequentism, Erkenntnis 45, (1996): 209–227.
[10] シャロン・バーチュ・マグレイン『異端の統計学 ベイズ』、冨永星訳、草思社、2013年。
[11] A. Hájek, "Interpretations of Probability", Stanford Encyclopedia of Philosophy, Winter 2012.
[12] S. Vineberg, "Dutch Book Arguments", Stanford Encyclopedia of Philosophy, Spring 2016.
[13] C. Rovelli, "Relational quantum mechanics." International Journal of Theoretical Physics 35.8 (1996): 1637-1678.
[14] 木村元「情報から生まれる量子力学」、『別冊日経サイエンス199』、2014年、76-83頁。

出典:『QBism』解説

木村元(きむら・げん)
芝浦工業大学システム理工学部准教授。専門は量子論基礎、量子情報、確率論。共著書に『量子情報科学入門』(共立出版)、翻訳書に『マーミン 量子コンピュータ科学の基礎』(丸善)などがある。

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【目次】
第1部 量子力学
 1.量子の誕生  
 2.光の粒子
 3.波動/粒子の二重性
 4.波動関数
 5.「物理学で最も美しい実験」
 6.ここで奇蹟が起きる
 7.量子の不確定性
 8.最も単純な波動関数
第2部 確率
 9.確率をめぐるごたごた
 10.ベイズ師による確率
第3部 量子ベイズ主義
 11.明るみに出たQBイズム
 12.QBイズム、シュレーディンガーの猫を救う
 13.QBイズムのルーツ
 14.実験室での量子の奇妙なところ
 15.物理学はすべて局所的
 16.信じることと確定性
第4部 QBイズムの世界観
 17.物理学と人間の経験
 18.自然の法則
 19.石が蹴り返す
 20.「今」の問題
 21.完全な地図?
 22.行く手にあること
付録 量子力学の四つの旧解釈

編集担当による紹介文:


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