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発達障害元年・2

「ふつう」では自分はどうもないらしい。
 漠然とだが、そうはずっと考えていた。
「ふつう」だと感じていたことはない、と書いた方がより近いのかもしれない。
 短い会社勤めをしていたまだ若かった頃、ほぼその通りをつい言葉にして人に言ったことがある。子細は忘れたものの、そう不適切なタイミングで言った記憶はないのだが、返事の代わりに、というように、
(いい気持では聞きませんでした)
 ととれそうなかなり微妙な沈黙が返った。
 まずかったかな?
「ふつう」ではない、を自負か自信寄りの言葉、へたをするとその意味でだけの言葉として受け取られたのかな?
 そんな気はしたが、言葉にして言われたわけではないものを、わざわざ訂正もしにくくてただ放置した。

 この人ならだいじょうぶと思って口から出した言葉が、相手にとってはそうだいじょうぶではなく、不快にさせた、またはいい気持で聞いてはもらえなかった、という記憶ならまだある。
 この方ははっきりとごく自然な話の流れで出た言葉、
「コンプレックスってある? なんか」
 そう聞かれたから言っただけの言葉だったが、
「劣等コンプレックスの意味で? それは」
 と確認した上でとくにないけれどと答えた結果、
「そういうところがいやなんだよね、あなたの」
 と、この場合ははっきりと言われた(一応は冗談めかしていたものの、あきらかにほんとうにいやそうに聞こえた)。
 橋本治による定義、つまり「コンプレックスとは、そのことで頭がごちゃごちゃになっている状態」というのに従ってのことでと先方には伝え、
「めちゃくちゃ苦手なことならかなりあるけど、なぜ翼がないの、みたいなことで悩む方じゃないもの、私。そう生まれついたものはしかたないじゃない。できないなあ、もうほんとうに、っていう以上にはだから思わない。困りはするけどね? だから極力、避けてきていたし」
 で、今は避けられてもいるし、と補足もして了解とは言われたものの、心からとはやはりまったく思えず、なら聞くなよ、そんなことと思ったりした(言いまではたぶんしなかった──と、思う。そう大して自信はないのだけれど)。
 念のために付け加えておくと、どちらもその時期には大変に親しかった人、それぞれに、
(賢いなあ……)
 と感心も安心もして、ガードをかなり下げもしていた人との会話ではある。

 AC仲間とだけ当時は認識していたあの人たちは、今思えば定型ではまずない人たちでもあったのだから、今ならわかっている情報をあれこれと交換し合い、ねえ、ねえと話しもしたらどんなにか盛り上がったことだろう?
 惜しいこと、などと空想をついしているうちに、話が弾みに弾み、気がつけば二時間にも及んでいた電話の終わり近くに、
「ねえ、すごくない? 話すことがこんなにあるなんて」 
 心から嬉しそうに彼女が言ったのをふっと思い出し、元気でいるのかな、今はと思ってしまう。
 テレビに映し出された満開の藤を二人して見ているうちに、
「今から行こう!」
 彼が言い出してほんとうにすぐ行ったりしたことも、むせ返るような匂いもまた思い出してみては、なんとか元気でいるのかな、とも思ってしまう。
 だとほんとうにいいのだけれど、どちらとも会わなくなって久しく、その確認も、仲間なのよ、たぶんそこもと伝えることもできる気はしない。
 思い出せば先週か、せいぜい先月あたりのことのように感じるどちらもが、ほんとうはそれぞれ二十年、三十数年は前のできごとで、生死のほども今はわからないのだから。

 形を変えながらにしても、このさきも長く続くものだと暢気に思っていた二つの縁は、前後して思いがけない形で突然のようにほどけた。悪いことは重なるもので、当時同程度に親しくしていたべつの友人との縁も、どういうか、突然暴れ去りました、という感じのことにやはり前後してなった(そういえば、年はかなり下だったこの友人も、定型ではなかっただろう、と思えるタイプの人だった)。
 それぞれに理由は主にどちらにあったのか、立て続けに起きたのはただの偶然か、ではなかったか? なにがなんだかわからないまま、
「わからないことは、それなりには腑に落ちるまで考えずにいられない」
 という、生来の癖もこのときは悪く働いて、考えに考えては身も心も疲れ果てる結果になった。

 長い年月が経っても、「なぜ」への答は部分的にしか出せていないままなのだが、一つ一つのできごとの理由は、どれも主として向こうの方、それぞれが長く抱えていた生きづらさの大きさの方にあっただろう。
 難しかったとは聞かされていた親子関係からくるダメージは、それぞれが言葉にしていた以上のものだったような気が今ではするし、これも今思ったらだが、非・定型であることからくる生きづらさもおそらく──それも相当に──あったに違いない。
 そしてどの人の目にも、私は実際以上に「だいじょうぶ」に映り、時として、うっとうしいほど自信に満ちても映っていたのではと思う。



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