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ハウスワイフはライター志望(18)「あんたのように、押しの強い人でないとできん」

「ライターになりたい!
熱い思いひとつを胸に抱えてライターの階段を駆け上がったもり塾塾長・森恵子の再就職奮闘記「ハウスワイフはライター志望」(社会思想社 1992年)を一部編集した連載、今回は第18回。
ミニコミ誌がらみの小料理店の取材、きものレンタルブティックの取材……。仕事だから、時には嫌な思いをすることも。でもそのひとつひとつの経験が、ライターとしての実力になるのです。


勝手に書きゃ、いいだろ

4月末から仕事が沢山やってきた。でもそういった仕事とは別に、私はミニコミ紙に夢中だった。なんとかこのミニコミ紙を、市民派の人たちに受け入れられるものにしたいと夢中だった。

「正義の味方」ぶりたい私が、どう叫んでも発行責任者は変わらない。
学生運動の挫折、事故による右手右足の切断、市議会議員に2期当選、そして落選。そんな人生を歩んできた夫でもない男を変えようとすることは、到底無理なことだと世間知らずの私は気づかなかった。

6月、ミニコミ紙で発行責任者の行きつけだった小料理店を取材することになった。私がアポを取った。電話口で小料理店の経営者の男性が言った。

「取材したいだって? 勝手に書けばいいだろ。ごたいそうに何が取材だよ。なんだよぉ、このごろ飲みにも来ねぇで」

私が元市議本人であるかのように電話口で怒った。市議会議員でなくなり、あの作業所でポツリポツリとワープロを打っている人が、小料理店に足繁く通えるほどの金銭的な余裕があるかどうか、考えてみればわかるだろうに。

「断られました。私ではなく、直接の電話が欲しいのかもしれません」
発行者にそう言った。
そのあと、彼は電話をしたようだ。
小料理店の店主は、私の口調があんまり澄ましていたので、腹がたったのだと言ったらしい。その言葉に、今度は私がツンツン、むかむか怒った。

「ミニコミ紙用の取材申し入れの口調というものが特別にあるんなら、教えていただきたいものだわ。町のミニコミ紙だから、丁寧な言葉を使わなくっていいわけ? 私は一面識もない相手なんですからね」
私のケースワーカー、じゃなかった、夫はまあまあと私をなだめる。
「ま、君がとばっちりを受けたってとこかもしれない」
「どうして私が変なとばっちりを受けなきゃいけないのよ。いい加減にしてほしいわ」

今度は夫にとばっちりが行き、それでも私のむかむかは治まらない。でも、私が必要以上に丁寧な口調でミニコミ紙のアポを取っていることを、私は心の底で知っている。
「あやしい者ではありません。広告ほしさの取材ではありません」
そんな私の口調に最近、こんな臭みが加わった。

「私はちゃんとしたライターです。ワケアリのミニコミ紙だけが、私の仕事ではありません」

それが、あの小料理店の店主の触角に触れたってとこかもしれない。
「何が取材の申し込みだ。てめえ、何様だと思ってるんだ。何が『いつも広告をありがとうございます』だ、『お話をうかがいたいのですが』だ。なに澄ましてんだよ」
たぶん、店主はそんな具合にむかついたのだ。

あんた、この男の何なんだい

小料理店に取材の日、発行者はなりゆきが気にかかった様子で、同行すると言った。店の近くで彼と出会った。彼が店のガラス戸をあけ、私が続いて入った。

店主はカウンターに座れとあごをしゃくり、
「今日は忙しくってネ、そんなに話しちゃいられねぇんだよ」
私たちを前に、忙しげに夜の料理の仕込みをしながら、そう言った。

本当にそうなら、別の日を指定すればよかったのに。私はむかむかしていたが、おとなしげな顔をしていたつもりだ。
そんな私をじろりと見て、これがごたいそうな口をきいた女か、という顔をした。

あんた、この男の何なんだい。
じろりの後は、そんなうす笑いがあった。

私はそしらぬ顔をしながら、心の中は憤りでいっぱいになった。

その瞬間に、彼と私だけが携わるこのミニコミ紙をあきらめたような気がする。
店主のそんなうす笑いひとつで私のミニコミ紙に対する情熱がさめる。
私の情熱はその程度のものだったんだろうか——。

つまるところ、私は発行責任者に対してもミニコミ紙に対しても、外野でしかいられないようなやつなのだろうか——。
このことがあってから、私は彼にミニコミ紙のスジ違いを熱心に申し立てなくなった。

あんたのように、押しの強い人でないとできん

「ユミちゃんを保育園に預けたら、あなた、とたんに売れっ子になっちゃったわネ」
「売れっ子」と聞いて、私はギャッと飛び上がる。
友人の顔を見る。
本気で言ってくれてるみたい。

だけど、その言葉、正しくないよ。
「急に忙しくなった」って言ってくれない?
「使い捨てライターの売れっ子」というのも世の中にあるならいいけど。

だけど友人たちの目には、悩みだって戸惑いだってある私ではなく、急にイキイキ、ニッコリし始めた35歳再就職ライターの私がクローズアップされているらしい。

実際、幸運の女神様はまた、私に笑顔を見せ始めた。というより、再就職の女神様はあまたいらして——ときには、男性の姿、形をしているけれども——いつも新聞に広告を出していらっしゃる。
「私に会いに来ませんか」と。

最初の一歩は、女神様がこちらを振り向くのを一心に待ったけれど、今年の春、私は思い切って女神様たちに面会に出掛けた。そして私は忙しくなった。

梅雨の晴れ間の午後、ミニコミ紙の記事を書いていた。
電話が嗚った。
「またひとつ、あんたに頼みたいことがあるんだが」
初老の男の声が電話口から聞こえた。

久しぶりに聞く、きもの業界誌の社長の声だった。
「業界向けにレンタルブティックの本を作るんだが、40店舗ばかりリストアップもできている。それを取材してもらえんかな」

「私ひとりでですかァ?」
尻上がりになった私の地声に対して
あんたのように押しの強い人でないとできん
素直には到底喜べないようなホメ言葉で、社長は私を説得した。

つい数カ月前、「気の弱いゴクツブシのライター」と重ねなくてもよい自嘲に自嘲を重ねていたけれど、この社長は私を「押しの強い人」だと言う。

自信のなさが気の弱さになり、自信は押しの強さになる。そんな当たり前を制御するオトナの部分が、私には欠けているのかもしれない。感情の振幅が人より少し大きいのかもしれない。

7月中旬から1カ月、焼けたアスファルトの都心を取材に歩いた。小説に登場する地名、雑誌のグラビアで見た場所を今、私は歩いている。そんな私の現実を楽しんだ。東京の街が、駅という「点」から、大通り、裏通りという「線」になることを楽しんだ。

掛け引き、取引しながら、さらにその先へ

取材はきびしかった。
社長のおだてと私に支払われるはずの金額に、ついフラフラとうなずいた自分を後悔したりもした。

デパート呉服部の取材と違っていた。
あの手この手で今後の方針まで聞き出し、ときには迷惑顔も邪険な扱いもされる。それにも厚顔無恥に食い下がる。そんな仕事だった。

専業主婦の友人、知人にも少し取材を手伝ってもらった。
「いつか仕事をしたい」
「私にだってできるはず」
そんな人ほど、完成度の高い情報を持ちかえった。

取材を終えると、この業界全体の傾向をまとめたくなった。
社長に頼まれたわけでもないのに、それをレポート用紙数枚にまとめた。

「レンタルブティック業界の特色をまとめてみたんですが、買ってくださいね」
「まぁ、見ないとわからんなぁ」
私はそれを差し出す。目を通して社長。
「買うほどのもんじゃあ、ないな。ま、せっかく書いたんだから預かっとこう」
マッ、いいか。

本が出た。中をばらばらとめくる。
ちょっと、社長! これ、いったい何ですか? 
私のあの図式じゃないですか! 
あの箇条書きも使ってるじゃないですか!

「あんたのは、図式に市場規模の額が入ってなかったからな」

ほんとにもう、いいかげんにしてよネ。
金額は入ってなかったけど、こういう図式は私の案なんですからね。
ヒトのいい主婦や主婦あがりを使って暴利をむさぼるような社長とは今日が縁の切れ目ですからねっ! ったく!

そう言いながら社長と私の縁は切れない。
社長と私はその後も条件を掛け合い、ときおり取り引きした。

地域活動で知り合った友人たちが、再就職前の肝だめしみたいにこの仕事に精を出したりした。
彼女たちはまもなく、それぞれ自分にあった仕事を始める。
私を育ててくれ、落ち込んだ私を再び元気印の女にしてくれた地域活動。
そこで知り合った再就職熱望の主婦は、ほんの3、4年前の私だった。
(次回に続く)

※ Image by Mircea Ian from Pixabay


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