見出し画像

異端と増野鼓雪の信仰

 前回の記事「茨木基敬考…その3」で鼓雪の証言のことを書いたが、どうも引っかかるので、『増野鼓雪の信仰と思想』を読み返してみた。著者の西山輝夫氏は、長く道友社に勤められ、著書も多く、お道の上で素晴らしい業績を残された方だと思っている。前置きは、そのくらいにしておいて、この本から引用する。

 よく壇上に立つ前に酒を飲んだが、これについてはこう言っている。「演壇に立つと、どうも頭が澄んで、あんまりはっきりしすぎるので、聴衆とうまく合わない気がする。それで講演の前に必ず酒を一杯飲んで壇に立つんだ。そうすると少しもうろうとして、ちょうど聴衆とぴったり心が合うようになる」と。
 本当は講演より座談の方が得手であったらしい。その方が的確に心の動きがつかめたからであろう。

『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社 P26
『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社

 今の時代のモラルから考えて、信じられない話でもあるが、どうも鼓雪はたくさんの聴衆を前に講演するよりは、少人数で座って話をするスタイルの方を好んだようである。その為に講演前には一杯、ひっかけていたのかとも思う。しかし、「もうろう」とするまで飲んで、まともに話ができていたのだろうかと思う。恐らく、本部や教校の中では、鼓雪が酒を飲んで講演しているというのは、大正期には知られた話だったのかもしれない。
 しかし、広池千九郎にしては、受け入れられないことだったのかと思う。今の時代なら完全アウトだとも思うが、天理教といえば「直会」で、酒がつきものだったように、私自身も思っているが、現代とは違う感覚があったのかとも思える。
 
 次に茨木事件井出クニ謀叛があった大正期に関して、書かれた部分があったので、紹介する。「教祖三十年祭の大節」という部分である。

大正三年十一月、鼓雪の父正兵衛が出直した。これは前年一月妻つる子を喪ったのに続くものであるが、打撃は深刻であるとはいえ、それは私事であった。しかし同年十二月三十一日の初代真柱のお出直しは、天理教全体に関わる大節として衝撃を与えた。それも、ただの時ではない。前年末に待望の本部神殿(現在の北礼拝場)が落成し、それを御供えとして五年一月に教祖三十年祭を執行するという喜びの旬であっただけに、誰もが顔色蒼ざめるようなショックを受けた。そして一体これはいかなる神意に基づくのであろうか、考え込まざるを得なかった。いわば明治二十年一月、教祖が姿を隠されたことに比すべき大事であった。
それのみでない。四年四月に神殿落成祝祭が執行されて一息ついた二か月後の、本部員松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄未決監に収容されるという事件が起こった。松村は鼓雪の義父であった。道の中心が揺らいだのである。

『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社 P46

 私が「茨木基敬考…1.2.3」で、書いて来た内容そのものであり、よくもこれだけの「ふし」を続けて見せられたものだとも思う。「妻つるの死」「実父増野正兵衛の死」「初代真柱の死」など、立て続けで、「義父松村吉太郎の収監」という追い打ちもある。
 天理教的に考えれば、悪しき因縁が全部、吹き出したのではないのかと思うのが、普通ではないだろうか。神の怒りに触れてしまった「かやし」の連続だったのだろうか。
 「実父正兵衛の死」茨木基敬が予言していたとのことだったが、鼓雪はそれも知っていたのだろうか?知っていたとは思えない。次々と起こる本部の事情に対して相当、悩みぬいたことと思う。
 
 増野鼓雪は教会制度に反対だったのだろうか。どうも鼓雪は天理教の教会制度については、複雑な思いを持っていたようである。

天理教徒が形の上のことに心を奪われ、真実心の開発を怠る年月を積み重ねてきた。その間教会組織は発展したけれども、それは人間心が多くまじっているがうえに、神の残念を知らず識らずのうちに招いていたのである。これを悟らず、今までの惰性に固執するようでは教祖に対して申し訳がない。

『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社 P49

 大正4年で鼓雪は26歳だったようだが、この若さで、鋭く天理教の問題を考えぬいていたというのは、凄いことだと思う。立て続けに起こる「ふし」が、そうさせたのだろうか?
 大正期の天理教について、問題だらけだと苦悶していたのだろうと思う。それだけに、教内で、立て続けに起こる「安堵事件」「井出クニ謀反」「茨木事件」について、どのような思いを持っていたのかが気になる。このことについては、『増野鼓雪の信仰と思想』「自称天啓者のこと」の章で述べられていたので、紹介する。

自称天啓者のこと
 ぢば以外の地に天啓者、もしくは天啓ありと称する者が出現した場合、どういうことが起こるか。それを身近に体験したのは大正七年、北大教会の茨木基敬会長が免職になった事件であった。その成り行きを記したのが「正月の頃(第4巻)で、この年二月十五日、鼓雪は義父松村吉太郎から事件のことを初めて聞き、翌日には同行して大阪教務支庁に行った。それから山中彦七(新大教会長)らとともに北大教会へ出張した。同行したのは、茨木基敬の息基忠と交友関係にあり、一年程以前から問題の円満な処理について、私的に話し合ったことがあることにもよる。基敬会長とともに基忠も免職となるのであったが、事件処理そのものはさしたるトラブルもなく終わった。
 詳しい事情はしらないので憶測するしかないがと前置きしながら、鼓雪は二三の感想をつづっている。」

『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社 P86

 これらの情報では、大正7年2月に茨木基敬の天啓のことを聞いたようだ。この段階では、まだ本部員には登用されておらず、事件の詳細なども知らされていなかったのかもしれない。義父の松村吉太郎が、すべての経緯を、全てありのままに話さずに、都合よく話したとも考えられるが、続きを読んでいただきたい。

北大教会の事件と関係があるのは、明治三十年に平安支教会長、飯田岩治郎が免職になった、いわゆる水屋敷事件あるいは安堵事件である。これは飯田に天啓があるというので、「平安と北の信徒が迷信して、本部に反抗した」。この時茨木基敬も飯田を神様と言っていたが、後本部に従った。「飯田氏を神様として担ぎあげた茨木氏が、二十年後、の今日において、自分がまた神様として担ぎあげられ、そしてその最後が飯田氏と同一の運命に陥って行くことは、因縁の理の然らしむるところと見るよりほかに見方がないのではないか」と鼓雪は思う。信者についても同様である。
しかし、「主人公なる茨木氏はこんなことは考えていまいと思う。それよりも一日も早く本部へ乗り込んで、本席たる地位を得んと熱望しておられることだろう。……しかし私は絶対にそうした日のあるべきを信じられぬ。なぜなら茨木氏のあの天啓なるものは、本部に対する不平が積もって、逆転したに他ならぬ」からである。
 救済を切に願う人類の熱意に感応して神から下される恩寵が即ち天啓であるとする鼓雪の見地からすれば、不平が高じて天啓者となるなどというのは、その一事で資格を失しているものである。少なくともそう憶測される事情があれば、それも自称天啓者にすぎないであろう。

『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社 P86-87

 茨木事件の前にあった水屋敷事件を引き合いに出して、述べているが、水屋敷事件があった頃、鼓雪はまだ8歳の子供で、事件のことを詳細には知らないはずだ。恐らく義父の松村吉太郎から、つるとの結婚後に、本部側に都合のいいように説明を受けていたことだろう。
 ましてや、自分の足で調べたりもしていなかった思われる。そこから「本席たる地位を得ようとしていた」という証言になったのかと思われる。
 しかし、憶測で言っていたことが、『天理教事典』では「証言していた」に変わっているのも変である。
 私が、どうも腑に落ちないというのは、この部分である。憶測で言っている分にはいいが、「証言した」となれば偽証になりかねない。『天理教事典』の方で「証言をしていた」という根拠がほしいところだと思う。
 私は茨木基敬が本席の地位を得たかったとは考えていない自称天啓者だとも思えないのだが、どうなんだろう。タイムマシーンに乗って、その時代へ行き、鼓雪茨木父子松村吉太郎に会って、直接、インタビューしてみたいものだ。そして、戻ってきてから、Noteに詳細を書いて、読者に紹介したいものだ。

 鼓雪は天啓者の公的承認についても、述べているが、教祖の場合は、「夫善兵衛さんの承諾」、飯降本席の場合は、「初代真柱の承認」があって、それらを得なければ、公的に認められないものだと述べているようで、茨木の場合、「教会の承認」を得た天啓者として、はじめて公的権威のあるものだと考えているようだ。
 しかし、それは、そもそも無理な話であったと思う。教祖、本席の場合とは、明らかに違いが多すぎる。まして、松村吉太郎が、ほぼ全権を握っていた時代の話である。本部員全員を招集して、天啓が本物であるかどうか検証して、総意として認めるなどという手続きをすることなど、あり得ない。
 それは、以前の記事を読んでもらえればわかるはずだ。鼓雪は実例として井出クニの話を、次に挙げている。読んでいただきたい。

 現にそうした実例の多くを鼓雪は見た。大正五年には播州高木村で井出くにという女性が二代目教祖と担ぎあげられた。この時も信奉者が彼女を本部に入れようと画策したという。鼓雪が知っている日本橋部内の宣教所長である夫人は、大教会直轄になりたいという思いがかなえられず、「かの夫人は苦悶に苦悶を重ねて、ついに神様になってしまった」。
「これら自称神様の語るところを総合してみると、その間に一道の共通点が見出される。それはいずれの自称神様も、本部へ入り込んで本席の地位を得たいと希望していることである。従っていずれの自称神様も本部から迎えに来る日を待っていることである。……(こんなことは)絶対にあるべきはずはなく、いたずらに信徒を迷わすのみに過ぎない小芝居だと思っている」
こう突っぱねながら、このような現象が次々と生じるのは、天理教として大いに反省しなければならない点があると鼓雪は指摘する。

『増野鼓雪の信仰と思想』西山輝夫 善本社 P86-87

 私が調べてきた事実とは、やはり大きく違うようだ。 井出くにを信奉する者が画策して、本席の地位につきたいという話は、調べていく中で、聞いたこともない。飯田岩治郎も然りである。
 この時代に、他にも自称の天啓者と名乗る者は、いたのかもしれないが、全てまとめて、本席の地位を狙っている自称神様だと片付けるのは、ただ本部を守ろうとしたようにしか思えない。
 鼓雪は「明治30年代には霊気が教内に漂っていたが、それが感じられなくなった」と述べ、霊的人格者を望んでいたようだが、これもおかしいと感じる。なぜなら、先ほども書いたように明治30年の水屋敷事件があった時、鼓雪は8歳の子供であり、実体験もしておらず、先人に話として聞いていたことばかりであると推測されるからである。増野正兵衛の息子で二世であるが、既に教会本部という体制が出来上がり、その中で育ってきた鼓雪であるから、いくら本当の道を求めようとしても、現実と理想の狭間で悩むことばかりであったのではないかと想像する。
 もう10数年、早く生まれていれば、また思想面においても変わっていたのではないかと思われるし、自分の目で確かめ、教団の変えていくべきところを、もっと的確に指摘し、活躍できたのではないかとも、私は思っている。

 29歳という若さで本部員に登用され、39歳という若さで出直すという数奇な運命にあった人なのかと思うが、純粋に道を求めていた人物なのかと思う。これも二世という立場で、天理教という教団の中で、教会制度に翻弄されてしまった事例なのかと思うと、一抹の寂しさを感じる。
 なぜなら、私は昭和の時代に本部の子弟、また教会の子弟を、友として多く見てきたからである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?