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ジロウ閑話休憩…16 “いんねん”は通り返しの道なのか

 私の大嫌いな天理教用語に“いんねん”という言葉がある。なぜ嫌いかと言えば、全てのことが“いんねん”の一言で片づけられるからである。いいことがあっても、悪いことがあっても“いんねん”で片付くからである。そんな単純なものなのだろうか?いや、そんな一言で片づけていいものなのだろうか?“いんねん”と片づけられたら、反発心しか起こらない私は普通ではないのだろうか?よほどの「へそまがり」なのだろうか?

 あまりいいことに関しては“いんねん”は使われない。その場合は、むしろ“徳がある”と言い換えられるようにも感じている。従って、“いんねん”は主に悪いことに使われてしまうことになる。
 しかし、果たしてそうなのだろうか?私は“いんねん”は人に説くべきものではないと思っている。まして、わかりきったように、悟りきったように朗々と人に対して“いんねん”を説くなどということは神のよふぼくとして慎むべき行為なのではないかとも思っている。

 えらい修行を重ね、神から免許皆伝で“いんねん”を説けるほどになった仙人のような人がいうのなら、聞く耳も持つだろうが、初めて会った素性もよくわからない人に「あなたの“いんねん”は~」と言われたら、新手の占い師か、詐欺師にしか思われないのではないだろうか。私が“素直”な人間じゃないから、こんなことが書けるのだろうか?

 しかし、長く人と付き合い、過去のことも現在のことも詳しく知り、相談も受け、おたすけだと心を尽くして接していると、やはり“いんねん”から来ていると思われることが、多々あるのも事実だ。
 今、悩んでいて、困ったことを話され、「それは大変ですね」と聞き役に回っていても、その人が通ってきた道、やってきたこと、心の使い方など、詳しく知れば知るほど、“いんねん”を感じずにはいられない。そして、その“いんねん”が代を重ね、積み重なっていることまで知ってしまったら、その未来まで見えてしまうように感じる。
 それを言い換えれば“天の理”とでも言うのだろうか。“天の理”の通りですべてのことが動いているようにも思うのだが、なってきたことに対して、“天の理”の通りだから、受け入れなければならないものなのだろうか。

 親が積んできた“いんねん”で現在、苦しんでいるのなら、子も同じことをして当然、同じことになってしまう。代々、それを繰り返していることを、知ってしまったら、その人の子供の未来まで見えてしまう。なんとかしなければと思うが、思うようにはならない。転ばぬ先の杖だといろいろ説いてきかそうとしても、もはや親子ともども聞く耳を持たないし、自分の今の境遇しか頭の中にない。本当に教祖が存命でいたなら、どういうのだろうか?どう諭してくれるのだろうかとも思う。
「ジロウさん、そりゃ、たすからんで…」と冷たく言われるのだろうか?逸話編にもあるように、何度も何度も教祖のもとに通って、助けを請えば「真実なら受け取る」と言ってもらえるのだろうか?

 医者なら現代の医学では無理だと答えることもできるだろう。また最善を尽くすとしか言えないであろう。身上なら神様にお願いしてみると、身上平癒を願い、“おさづけ”を取り次ぐだろうが、事情となれば、そうもいかない。人はどこでどう、道を誤って、“いんねん”を積んでしまうのだろうか。私にはわからないが、“心のすき”から来ているようにしか思えない。思いやりを欠いた言葉や行いが積み重なっているようにしか思えない。しかし、本人は全く気付かないし、周りが気がついて諭したところで聞き流していることが多いようにも感じる。

 教祖年祭に向けて、お互いの信仰の励みになるように「おさづけ」の回数や「にをいがけ」の実働回数、「ひのきしん」の回数など、競うように紙に書いて出すようなことばかりが聞こえてくるが、空しく感じる。悪いとは言わないが、おたすけの最前線にいる本当に真実の信仰を持った“よふぼく”の人が見たら、勇むというより、「滑稽」に感じているのではないかとも思うのだが、私のような「へそまがり」には、そうとしか思えない。そして、そんなことはどうでもいいことだと意にも返さないのではないかとも思う。
なぜなら最前線のおたすけ人は“真剣”だからだ…。人の“おさづけ”の回数などで勇めるだろうか?私の方が回数では勝っている…と思って勇めるのだろうか。“ほこり”を積んで、そうじも怠っているような私にはわからないことだらけである…。

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