見出し画像

天理教の神名の変更について

 天理教の神様は「天理王命」と明記されている。信者であればおつとめの時にも「なむてんりおうのみこと」と唱えている。天理教を信仰する人々にとっては当たり前すぎることではあるが、それには歴史があり、紆余曲折があったということも知っておいて損はない。
 年代的に見て、筆者の親世代、祖父世代の方々にとっては天理教は神道の一派であり、何の疑問も持たず教祖が教えた道を通るのだと信仰を続けていたとも思うし、儀式的なものは神道のやり方で、祭儀式の練習など神道に倣っていながら天理教独自のものだと思っていた人も多いように思う。
 インターネット上にも興味深い論文があるので、紹介したい。元天理大学宗教学科の早坂正章氏の論文であるが、
 
一、教祖在世時代(天保九年~明治二十年)
二、教会公認・一派独立時代(明治二十一年ー昭和二十年)
 
 この二つの時代での神名がどうなっていたか、またその当時の信仰はどうなっていたかについて述べられている。PDFなので、ダウンロードして読んでいただきたい。

『天理教の神名の変更について』早坂正章

 教祖在世時代には「吉田神紙管領公認」「転輪王講社結成」「神道本局部属教会認可」と三度にわたる所属変更による神名の変遷があったようだ。しかし表向きは神道、仏教と体裁はそうであっても、人々のおつとめに関しては一貫して教祖の教えに従い、勤めていたようである。
 
 教会公認・一派独立時代においても神道本局より直轄六等教会として認可を受け、公認は得ているものの内務省から干渉は受けていた。終戦の国家神道体制が終わり、「復元」として改革されるまで続いていたのである。早坂氏は論文の中で「明治23年11月中旬に行われたという宮口某なる布教師との論争」「教団を去った橋本清が書いた『天理教の内幕』なる教団批判の文書」「大平隆平の「教典廃止論」「神名復活論」」などをもとに「当時の批判文書の多くが指摘する祭神及び教義における表面と裏面との二元的態度、これこそが教団の歴史の実態であって、教団の内情は、教祖の教示以来、一貫して今日に至っていると言いうるであろう」と結んでいる。
 
 しかし、筆者は『天理教教典』などの教義書などの面では「復元」が実行され、教祖在世時のものに戻ってはきたと思うが、教祖みきが応法の道へなびくことを一貫して反対してきたということも忘れてはならないと思う。また飯降伊蔵本席もそれは変わらず、一時的なものとして許しはするという態度であったと思う。終戦で完全に自由で開放された中にあっても、本当に「復元」されたのではなく、むしろ神道、仏教とはやっと縁が切れただけで、教団運営に都合よく、天理教史で重要なものでも切り捨てられ、無味乾燥としたものに置き換えられたようにしか思えない。

 松村吉太郎も自伝『道の八十年』の中で一派独立時の苦労を赤裸々に綴っているが、やはり一派独立というのは大変なことであったと思う。しかし、それは神が望んでいたことなのだろうかという思いがいつも付きまとう。人間世界のことばかりが強調され、教祖が説いて来た本来の道よりも、人間世界のことばかりを優先させてきたのではないだろうかとも思えてくる。真実は未だ遠しという気がする。今はただ、新型コロナ、ウクライナ侵攻による世の中の混乱が終わり、本当にこの世を治める真実の道を広める教団として生まれ変わることを切に願うだけである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?