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『おふでさき』の“上”と“神”、“から”と“にほん”

はじめに

 天理教の原典の一つであり、教祖中山みきが残した『おふでさき』で、難解なキーワードがある。特に2.3.4号で、よく見かける“上”と“神”や“から”と“にほん”、そして“とふじん”という言葉である。比喩として用いられているのかとも思うが、そうではなく、もっと具体的に名前を出したり、ずばり事例をはっきりと書き残していればと思うこともある。
 『おふでさき』の解釈本はいくつか出ているが、これらのキーワードに関しては、どうもボカして書いている印象しかない。或いは何か忖度があり、ズバリ書けないのかとも勘ぐってしまう。それだけ難解な言葉かとも思うのだが、その言葉が指し示すものが、間違っていると解釈にも大きな違いが出るようにも思う。

『おふでさき』を執筆する前の時代

 前の記事「南方仁がいた時代の教祖中山みき」で医者の南方仁がタイムスリップした文久の時代(1861~63)に、信者と言われるような人が参詣に来ていたようだ。幕末の混乱し始めた時代だというのはドラマ「仁―JIN」を見ていてもわかるだろう。天保9年にみきが神懸ってから、20数年後の話であり、まだ「おてふり」も完成していなく、『おふでさき』は明治2年からだから、まだ書き始めてもいない頃である。わかりにくいので、西暦と合わせて書いておく。

1858年 安政5年  安政の大獄の頃 不平等な日米修好通商条約を結ぶ 
1859年 安政6年  中山家の田地を年切質に入れ、貧に落ちきっていた
1860年 万延元年  秀司の青物売り、小寒が機織り 仲田儀三郎が入信
1861年 文久元年  西田伊三郎や桝井伊三郎など信者がぼつぼつできた頃
1862年 文久2年  生麦事件  和宮の降嫁の頃 
     (ドラマ「仁ーJIN」の南方仁がタイムスリップしていた頃)
1863年 文久3年  坂本龍馬が海軍操練所創設に動き、薩英戦争が起こる 
1864年 元治元年  大和神社前で拍子木太鼓を鳴らした事件
1865年 慶応元年  つとめ場所も完成したが、助造事件も起こった頃
1866年 慶応2年  あしきはらいの手振りを指導
1867年 慶応3年  大政奉還 秀司が吉田神祇官領に願い出た頃
          みかぐらうた作成
1868年 明治元年  鳥羽伏見の戦い 明治政府 神仏分離令

 日本の歴史お道の動きと混ぜて書いたが、ドラマ「仁―Jin」のようにタイムスリップしてみたいものだ。場所も江戸ではなく、大和の地に…。
 そうすれば、村の人にも評判を聞いたり、秀司さん、小寒さんにも会い、インタビューしたりもできる。そして未来の天理教はこんなにも大きくなったが、お母さんの望み通りにはなっていないと、さりげなく伝えてみたい。歴史に影響を与えるから、仁のように頭が痛くなるかもしれないが…。

“上”と“神”

 「おふでさき」に出てくる“上”だが、日本語では「カミ」と発音するだけにややこしい。これを仮に他言語に訳す場合を考えれば、問題になることは簡単に想像できるだろう。この時代のいったい誰を指しているのだろうか?『おふでさき』に1号には長男の秀司に関する歌が出ている。

わがみにハもふ五十うやとをもへとも 神のめへにハまださきがある 63
ことしより六十ねんハしいかりと 神のほふにハしかとうけやう  64
これからハ心しいかりいれかへよ あくじはろふてハかきによほふ 65

『おふでさき』1号

 この時点では教祖みきは長男である秀司さんに大きく期待していたのではないだろうかとも思える。内縁の妻と別れ、その子供も実家へ戻し、新しくやり直すように若い女房をもらって、大きく期待していたようにもうかがえる。
『おふでさき』2号の冒頭に次の歌があるが、これは明らかに秀司さんのことだと思われる。そう解釈しなければ1号からの流れからも意味が通らない。

これからハをくハんみちをつけかける せかいの心みないさめるで 1
上たるは心いさんでくるほとに なんどきにくるこくけんがきた  2
このつとめどこからくるとをもうかな 上たるところいさみくるぞや 4
いまゝでは上たる心ハからいで せかいなみやとをもていたなり  35

『おふでさき』2号

『おふでさき』の解釈本はいろいろあるが、“上”に関しての解釈はどれもこれも「上に立つ者」という意味では共通しているが、教内で上に立つ者、すなわち人々をこれから導いていく者としての“上(カミ)”なのか、或いはもう少し具体的に政府とか警察とかと解釈するのかで、大きく意味合いが違ってくる。
 前者の解釈であれば、中山家の当主秀司を指していると考えるのが妥当である。しかし、「上たるは心勇んでくる」というところや、「上たるところ勇みくる」というところや、「せかいなみやとをもていたなり」という部分を見れば、どう考えても当時の教内トップであり、当主の秀司さんを指していることは間違いない。

 『おふでさき』が書かれたのは明治2年から15年の間であり、これは秀司さんが若い女房(まつえ)をもらい、その“まつえ”が出直すまでの期間とぴったり一致している。つまり教祖みきとしては、長男に期待し、若い女房と新しく出直して、ひながたを作っていこうとされていたのではないかと思う。その記録として、また教えをちりばめた書き物として、当時の中山家の人々を台に書き残されたものだと思う。あくまで個人の推測の域を出ないが…。
 しかし、それが正しいのであれば、今まで、「教団と官憲の対立の歴史」のように教えられてきた天理教というのは何なんだ?ということになりかねない。「教祖と秀司一派の対立の歴史」をできるだけ避け、中山家の安泰を図ろうとしたようにも感じてしまう。冒頭に「忖度があり」と書いた理由はこれである。秀司さんはどうも母である教祖みきのことを心から信じ切れてはいなかったようだ。そのことは、後の地福寺傘下に入った転輪王講社の話からも頷ける。

『おふでさき』2号は教祖みきの秀司に対する嘆き

 『おふでさき』2号を読み始める前に、まず明治2年に書かれたもので、教祖は断食をされ、信者はぼつぼつとでき始めてはいたけど、秀司さん、小寒さんをはじめ、教祖の話をしっかり理解したものはおらず、むしろ、トップに立つ秀司さんは母親であるみきの言葉を信じないで、新政府に追従する道が正しいと思い込んでいたようだ。またおやしき内には秀司さんの内縁の「おちえさん」とその子供「おかの・音次郎」もおり、ふしんのじゃまになるから実家へ帰せという神の命もあった。
 「高山」という言葉も出てくるが、それは中山家と理解すれば、「水」が何を意味し、「ごもく」が何を意味するかも自然とわかってくる。そして小東家から若い女房をもらい、やり直せということを意識していただきたい。 
 そして、これらのことを念頭において、第2号を最初から読んでいただければ、驚くほど、すんなりと2号のお歌が胸に落ちることと思う。
 
明治2年に1号、2号は書かれているが、この明治2年のおやしきの動きが、まるでドラマのように浮かんでくることと思う。

 折角、若い女房と機会を与えられたのに、ふしんして出来上がった「つとめ場所」もできたというのに、「上」である秀司さんは吉田神祇官領配下にしてしまい、神名まで変えてしまい、いらぬ説教まで始めてしまったようである。『教祖物語』の劇画にもその様子は描かれているが、当時の人は祭式や立派な衣装に惑わされていたのかもしれない。

“から”と“にほん”の解釈が難しい

  一般に天理教人の間では「にほん」は教えを悟った者、「から」はそれ以外のまだ教えが悟れていない者というように教えられているようにも思うが、筆者は、どうもそれではしっくりこないように、常々、感じていた。その頭で『おふでさき』を読んでいくと、何となくわかったようなわからないような気分になる。
 それで「にほん」はずばり日本であり、本筋である教祖みきの教えを聞き、信じていく者やその場所と考え、「から」はそれ以外に入ってこようとするもの(具体的には吉田神祇官領)であり、「とふじん」は、その「から」に属する人と考えれば、31と32のお歌が理解しやすくなる。

これからハからとにほんのはなしする なにをゆうともハかりあるまい 31
とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで まゝにするのが神のりいふく   32

『おふでさき』2号

「からとにほんのはなしする」と、たとえを用いて説いていくが、何の話かわからないだろうと前置きし、次の歌で吉田神祇官領の祭式で秀司さんが立派な衣装を来て、教祖の教えとは違うことを説き始めたことに神が立腹していると理解するのが自然だと思われる。そして世界をおさめるために大事な教祖の教えを説かずに「上たる」秀司さんはそれを理解せず、せかいなみのことばかり説いている。
 しかし、現実には吉田神祇官領の公認のもとでの神社に参るように来ていた人々は教祖みきの信仰を求めていたのであり、「から」と「にほん」をわけると宣言し、せかいがおさまっていくように説いていったのかとも思える。だからこそ、どれだけ多くの人が集まってきても神が引き受けるから、案じることもいらないし、これでにほんがだんだんおさまっていくのだと人々を導いたのだと思う。
 
 『おふでさき』の第2号を読み直してみたくなったことと存じる。思い立ったが吉日であるから、『おふでさき』を手に取り、読み直してみていただきたい。

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