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「理の親子」について…付け足し

 どうもまだ、書き足りないような気がして、すっきりしないので、自分の思いを書き留めることにする。
 私は信仰的には四代目だ。当然ながら親の代で、今もつながっている信者さんがいる。父が亡くなり、その後を継ぎ、届かぬながら、信者宅の講社祭も勤めさせてもらっている。また遠方の信者宅へも定期的に、おさづけも取り次ぎに通っている。
 この場合、私より一回り以上も年配の方を相手に、私は「理の親」とか、言えるのだろうか?親の代で、信仰に入ったのであれば、自分の親と、その人は「理の親子」と言えるだろう。
 代が変わった今、私と、その人は「理の親子」と言えるのだろうか?
“私は導いた人”ではない。“親が導いた”のである。

 うちの信者さんには3年前に癌で亡くなった方もいれば、脳卒中で半身不随の方もいれば、身上事情を抱えた方もいる。皆、親の代で導かれた方々だ。だから、父が出直してからは、私が引き継いでいる形だ。遠くて頻繁にはお伺いできなくても、おさづけを取り次ぎに行き、回復を祈り、人生を陽気に暮らしていけるようにと祈ってくる。何かお手伝い、ひのきしんできることがあれば、させてもらっている。
 その移動の中でも、いろいろ考えるが、「理の親子」とか、それを意識したことなど、一度もない。そんなことより、助かってもらいたい、皆、父を慕って、通ってくれていた方ばかりで、その代が変わったから、引き継いで、自分にできることをさせてもらおうと思い、やっているにすぎない。

 代々続く大きい教会などでは、会長さんが変わり、「若さん」と呼んでいた人が後を継ぐ。しかし、先代さんが導いた「理の子」に当たる方々は、代替わりした会長さんを「理の親」として、ついていかなければならないものなのだろうか?
 
仮にそうだとしても「理の親」とか「理の子」とか、口に出して言わなければならないようなことなのだろうか?ましてや「理の親」のいうことは絶対で、従わなければならないことなのだろうか。馬鹿馬鹿しくて話にならない。もう時代は令和であり、江戸時代のような「封建社会」ではない。「お道のことば」深谷善和でも、書いてあったはずだ。

『お道のことば』深谷善和 道友社

 先の記事で書いた「お道のことば」深谷善和氏の解説は正しいことを述べているのかとも思う。しかし、申し訳ないが、私は参考意見くらいにしか、考えていない。私は信仰する上で、めどにするべきは『原典』であり、それ以外は、人間である誰かが書いた解説書のようなものであり、その人が解釈したことを書き留めたものにすぎないと思っている。従って、参考にはするが、自分の信仰の糧にするか、どうかは自分が読んで、自分で判断する。
 
また、書かれていることは本当か、信じても大丈夫なのかと、できるだけ調べて、鵜呑みにはしないようにしているつもりだ。そうしないと、知らず知らずのうちに、思想が偏り、本当に正しい道から離れてしまうように思うからである。
 
 だから、「仲田儀三郎」の話も「増野鼓雪」の話も、その他、異端の話も書いて来た記事は、調べたことを元に「おかしい、この部分は矛盾していないか?」と思える部分を取り出して、自分の考察を加えてNoteに書いてきたつもりである。そして、志を同じくする人に読んでもらい、他の情報を持っている他の方とも意見を交換し、共に考えていきたいと思っている。
 
 以前にも書いたが、自分で天理教のことを研究し始めてから、どうも道友社から出ている本や、本部の方が書いた本は、隠されている部分が多いと感じる。だから、いろいろ読んでも、堂々巡りばかりして、真に心に響いてくる部分が少ないように感じていた。だから、もっと、つっこんだ研究もしなければならないと、自分の足で歩き、人にも会い、資料も集めて、自分なりに答えを見つけようとやっている。
 ただ、その過程で、あまりに隠蔽されていることや、都合よく本部側に有利なように書かれているようなことが多いと感じている。
 捏造とか、隠蔽とか、言わないまでも、そこを変えたり、隠したりしたら、「真実が見えないだろう」と思うことがある。
 だからNoteというネット媒体を使わせてもらい、調べたことや、そこから思ったことを発信している。読者の方には、私が書いたことも鵜呑みにせず、おかしいとか、違う考えを持っているというようなご意見もしていただきたいとも思っている。私は人間であり、誤解もすれば、間違いも起こすから。
 
 話は戻るが、「理の親」と堅く信じ、ついていこうと思ったら、心中覚悟で、とことん、ついていけばいいとも思う。しかし、そう思えない人を「理の親」とするのはやめるべきだと思う。
なぜなら心中することになった時に、後悔することになるからだ。本当に堅く信じられる「理の親」と思える人なら、天国でも地獄でも、ついていけるはずだ。そして、その結果に対して、後悔もしないはずだ。
 
 ここまで書いて、やはり思う。「理の親・理の子」などという言葉は使わない方がいいし、それぞれが心の中で感じることなのかと思う。


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