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避けては通れない難しいテーマである「色情因縁」

難しいテーマ

 いつかテーマにあげようと思っていた「色情因縁」という言葉である。しかし、複雑すぎて、うまく言葉にまとめることは難しく、簡単には書けないテーマだと思っていた。「色情因縁」といえば、天理教だけでなく、仏教など他宗教でも使われているようでもあるし、スピリチュアル・易者・占い師なども使っている用語なのかと思う。天理教人なら、何度も聞かされてきたワードであろうし、読者の方も、「色情」について何度も考えたこともあるのではないかと思う。また「色情因縁」という言葉のために、恋愛を避けたり、異性との付き合いなどにも大きく影響を与えたりもしているのかとも思える。しかし、天理教に関する辞典などを調べてみても「いんねん」に関する記述はかなり多いが、「色情因縁」に関しては、少ないような印象がある。やはり避けている部分なのだろうかという思いもする。詳しい方がいたら、伺ってみたいものだ。

不倫は色情因縁を積むこと?

 今の時代、「不倫」など珍しくもなく、ネット上にもそんな話が溢れかえっている。また結婚・離婚を繰り返す某俳優が「不倫は文化だ」などと言ってバッシングを受けたり、現代社会は、もう何でもアリという感さえする。少し前に「夫のちんぽがはいらない」という本が流行ったようにも思うが、ずいぶんセンセーショナルなタイトルで記憶に新しい。性に関しては話しにくい部分があったりもするものだが、ずいぶん時代も変わったようにも感じる。赤裸々に夫婦の営みがうまくいかないことや、それにまつわる家族や子供を作ることなどの社会的な問題を書いた小説のようだ。夫のは「入らない」が、他の人のは「入る」ということだが、これも色情因縁を積んでいることになるのだろうか?単に「入る・入らない」だけの問題ではなく、現代社会のいろいろな問題まで絡んでいるような気がしてならない。

「色情、金銭、酒」

 人間がだめになっていく原因は、すぐに想像もつくと思うが、「色情、金銭、酒」が多い。確かに筆者も今まで生きてきた中で、これらが原因で、苦しんだり、悩んだりする人を多く見てきたように思う。事情の原因の9割くらいは、これらが原因だと言っても過言ではないようにも感じる。そして、上記の三つもそれぞれ繋がっているようにも感じる。
 天理教の教祖中山みきは若い人たちに「慎みなされや」と説いていたという。また「一の道具」の使い方にも注意するように説いていたという。また「色情を使って金をとった者は、人間に生まれ変わることはできず、牛馬に堕ちる」とも読んだことがある。教組のそばに仕えていたこともある乾やすさんは、教祖に女郎屋で働いている者は、みな牛馬に堕ちるのかと尋ねたそうだ。その答えは「親のため、家のため、身を落とした者は、牛馬には堕ちん」ということだ。今の時代、女郎屋と言っても、若い人には想像もつかないだろうし、身売りされるということも理解しにくいと思う。

身勝手な思いから

 問題になるのは、自分の贅沢の為、見栄のために、分不相応な暮らしをし、挙句に借金も重ね、今度はそれを返すために、簡単で手っ取り早く楽に稼ごうと、自らの体を売る行為をするようなことなのかと思う。男も男で都合よく、手っ取り早く快楽と金を得ようとする。自分中心で身勝手な心遣いから始まっているようにも感じる。教組がご在世の頃とは時代背景が違うとはいえ、今も昔も変わらない普遍的なことなのかと思う。
援助交際という言葉もあったが、「何が悪いの?」と当事者二人に言われたら、読者の方はどう答えるであろうか?現代社会の複雑な事情を考えれば、簡単に一言では答えられないようにも感じる。

「一の道具」の使い方を誤ってはいけないというが、上記の小説で、夫のは「入らない」が、他の人のは「入る」ということだが、これも色情因縁を積んでいることになるのだろうか?と問いかけたが、非常に微妙な感じがする。「一の道具」が「入る・入らない」の問題ではないようだ。快楽を求めるとか、誰かに愛されたいとか、心の隙間を埋めたいとか、様々な個人の事情があるようにも思う。しかし、誰彼かまわず、行為を繰り返していれば、望まぬ妊娠や性感染症というリスクもある。この性感染症というものも、神が人間に与えた警鐘なのかとも思えてくる。「慎み」が大事だということなのだろうか。思いつくままに、いろいろなことを書いて来たが、結局のところ、我が身思案ばかりで、人の心にまで及ばず、「我さえよくば」となっていることが、全ての元凶なのかとも思えてくる。
 一般的な色情因縁というのは、どうも前生で相手を苦しめてきたから、今世でその報いを受けているというのが多いようにも感じる。しかし、本当なのだろうか?私には短絡的過ぎて信じられないばかりか、そんな単純なものなのだろうかとも思える。

心のほこりを払う

 「感謝・慎み・助けあい」がスローガンとなって、天理教の教会の門などにも掲げられているが、基本中の基本なのかもしれない。「色情」とついてはいるが、結局は「心のほこり」が問題になっているようにも感じる。「ほこり」は目に見えにくいばかりか、知らず知らずのうちに積もっていくものだが、ハタキやホウキで日々、払っていて、拭き掃除までしていれば、積もらないものかとも思う。ハタキやホウキでは取れず、高圧洗浄機やワイヤーブラシで擦らないと取れないくらいに積もらないようにしたいものだとも思う。

 どうもまとまりのない文章になってしまった感がありますが、ご意見やコメントなどがあればお聞かせくだされば幸いです。

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