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戦後の「復元」の教理について2

 前回の1では『死の扉の前で』P57 二代真柱の話した「復元」についてだったが、現代に続く天理教の教理そのものだったといえる。しかし、そこから驚く展開が待っている。その話の続きの部分を紹介するので、ご一読願いたい。

「これが復元の教理かと、僕も驚いたが、傍に仕えていた東井夫人が突然真柱に言ったのです。
――真柱さん、わたくしは小さい時から、耳に胼胝ができるほど両親から教理を聞きましたが、こんなお話は聞いたことがありません。
――おれは真柱だぞ。お道については真柱の言うことが正しいんだよ。
――天理教がお話のようならば、私でも信者になれます。
「そうO先生が真柱へか、東井夫人へか、その二人に向かってともとれるように話したが、その時、真柱が顔色も蒼白で、血走った目を据えて酒を呷るように飲むのを見て、僕は息を呑んだものです。一体今の話は酒の上での話であるか、ほんとうに復元しての教理であるか、それとも半年前の僕への手紙への答えであるかと考えてー」

『死の扉の前で』芹沢光治良 P58

 O先生というのは東京大学宗教学科のO教授で、東井夫人というのは天理教教庁印刷所長、養徳社社長、天理よろづ相談所常務理事などを務め、また衆議院議員もしていた東井三代次氏の夫人だと思われる。一読してショックを受ける方もいるかもしれないが、令和の時代に入った今、第二次大戦後の民主的な世の中に変わり、明治教典以来の歪められた教理から「復元」と称して、整えられ、現代まで教えられてきた教理の根本的な部分である。

 東井夫人の話からも想像できるが、教祖ご在世の時代からの古い信者さんたちが聞けば違和感を抱くものだったのかと思われる。
 教祖中山みきが明治20年にお姿を隠され、本席が天啓を伝える時代に入ったが、教祖直々に教えられた話や先人から伝えられた話を拠りどころに信仰し、明治36年に発行された神道理論の「明治教典」でおかしいと感じながらも応法の道だと信仰の火を絶やさずに、熱い信仰心で教会を守り、教会本部に尽くしてきた会長や信者がほとんどであろう。本当に「ひながた」を実践し、道を求めていた求道者でなければ通れない道だったのかとも思う。
 
 天理教に限らず、今の日本では宗教そのものが避けられる傾向があるように思うが、宗教団体というものができ、「人間」がその教義や組織を整えようとすればするほど、組織に属する者や信者にとっては喜べないものになっているのかとも思う。むしろやせ我慢無理をしても教祖の「ひながた」を通るのだと貧乏にも耐え、子供にも辛い思いをさせ、その中も勇んで通り、喜びを見出して、通ってきたのかとも思う。筆者の親世代もそうである。

 しかし、代が変わり、初代が苦労して立派な教会も普請してけっこうな時代になってから生まれた者には「ひながた」を通れと言われても無理がある。また道を本当に求めようとも思わない者も出てくるのも自然な成り行きにも思う。
 
(3に続く)

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