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事情働き…?何それ?

 先日の話である。現役の末端の分教会長をやっている友人との会話である。

ジロウ:「ひさしぶり!元気にやってる?」
友人A:「元気にやってるけど、今、事情働きしてんねん。」
ジロウ:「…? 何それ?どういうこと…?」

 
 話を聞いてみると、教会だけでは食っていけないし、数年前から会社で働いていて、そこだけでなく別のところでもパートで働いているとのこと。どことなく後ろめたい気持ちがあるのか、教会長をしながら、勤めていることを気にしている様子だった。しかし、それを振りきるかのように続けた。
 
友人A:「講社祭してた信者宅の神実様もみな、返ってきてん。」
ジロウ:「まあ、高齢化してるし、そんなところばかりだろうねえ。」
友人A:「月次祭の日は仕事も休んで何とかやってるんやけど。」

 
 おそらく今まであった信者宅も高齢化が進み、子供たちは社会へ出ていき、信仰も伝わってはいないのであろう。老夫婦だけで「お社」を守ってはいたが、それも高齢化し、後継する者もないので、神実様をお返しということなのだろう。お供えもほとんど上がらなくなっているだろうし、現実問題として教会に住む家族だけで食べていくには働かなければやっていけないのであろう。
 
ジロウ:「まあ、こうなるのも自然なことだと思うよ。末端の教会もそんな       ところばかりだし、部内がある教会にしても末端がそうだから、
     似たようなもんだよ。いずれ潰れていくよ。」

 
 彼には慰めとも励ましともつかない返事をしておいたが、みんなわかっていたことかとも思う。何の改革もせず、旧態依然としたピラミッド型の「教会制度」を続けていくのは時代にそぐわない。若い人たちもそれは感じているだろうし、「世界ろくじ」とか「男松女松」とか、みな平等であり、区別もなくと言いながら、教団の中の実体は江戸時代顔負けの封建社会そのものなのだから。以前にも別な友人から似たような話を聞いたが、その友人はもう完全に教会も整理し、自分たちの代で分教会はやめて、すっきりしたと話していた。
 
 インド人もびっくりのカースト制度が明文化されてはいなくても、目には見えなくても、実質的にあるのだから、人々が離れていくのも自然なことである。親世代もそれがわかっていながら、どうすることもできず、先代に親不孝はしたくないと細々と信仰を続けてきた結果が今の姿なのかとも思う。

 どんなに素晴らしい教えでも実践しなければ意味がない。(教内でよく言われていた言葉のように思うが、完全なブーメランである。)実践しないから衰退していくのであって、教祖の教えに従い、本当に実践していれば今のような状況にはならなかったのではとも思う。
 また、本部の人事も「適材適所」よりは「御家柄」で、教会本部の各課部長、課長は決められていく。それでは優秀な人材は残らない。「お礼奉公」期間が過ぎれば若い人は愛想をつかしてやめていく。「人材育成」は絵に描いた餅で、今の天理教の教団内ではただの合言葉に過ぎない。
 
 昔から問題だらけであった「教会制度」を改革しなければ、もはや存続さえ危ういのではないだろうか。生まれながらの身分制度が色濃く残り、それは本部だけでなく、地方の教会でも本部に倣えで同じように世襲してやっているのではないだろうか。後継者が勇んで前向きに教会を継いで運営していくのなら話は別だが、私が知る限りではそういった話はレアなケースだ。
 
 「教会制度」だけではない。天理教史を調べていく中で、「教理面」でも問題があるようにも思っている。教団の「隠ぺい体質」も問題であり、もはや何から手を付けて行けばいいのかもわからないような状況なのだろうか。


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