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『神の計画』は変更ばかりだったのか。

はじめに

 天理教を長く信仰していながら、知っているようで、知らないことだらけで、矛盾を感じたり、おかしいと思ったり、流されるまま信仰を続けてきた人も多いように思う。自分がそうであり、そんな鬱積した思いから脱したいと天理教の歴史について研究を始めてから、けっこうな月日が流れた。異端研究だとか、天理教の裏歴史研究のように感じたりもしたが、古い資料や表に出てこないような話などにも目を向け、今の自分の知識と矛盾がないか、筋がちゃんと通っているのか考えているつもりである。そしてそれを自分の信仰の糧にもしてきたつもりである。
 ちょっと紹介したい文章があるので、それをもとに書いていくことにする。『神の計画』芹沢光治良からの抜粋である。

もともと神の計画はあったのだろうか。

 この本のタイトルも目を引くが、手も足もなければ口もない神の思いを知ることはできない。神という存在があると信じて話を進めていくが、我々、人間は神に何を求められ、どういう計画があるのかはわからない。だから神の思いを伝える天啓者が必要になるのであり、皆、それを求めるのかとも思う。
 この『神の計画』芹沢光治良も一つの小説に過ぎないが、あまりにリアルすぎて、やはり神が書かせたのかとも思えてくる。もちろん作家がいろいろ調べ、それをもとに書いているのだから、事実や創作も含まれているだろう。それはともかく、次の文を読んでいただきたい。

親神は中山みきに天下って百五十年目に、刻限によって、世界助けをする時の準備に、先ずみきに天下り、みきにやさしい神の道を説かした上に、親神の世界助けの用意に、神の道の真柱をたたせることにした。その真柱たるべき人の選択は、難しかったが、中山みきは八十二歳の時に、外孫である梶本家の三男、真之亮(十四歳)を、相続者にもらい受け、将来その真柱にすることにして、手もとで育てながら、そのための修行にはげんだ。しかし、その頃から、息子の秀司はじめ、側近者たちは、みきの信仰を、新しい明治政府に認めてもらおうと苦慮して、天理教という教団をつくろうとしていた。それに対して、中山みきは常に反対した。

『神の計画』芹沢光治良 81頁

 天下って百五十年目というのを調べてみると、1838年(天保9年)+150年は1988年ということになる。昭和の終わりの頃であり、世間ではソウルオリンピックのあった年でもある。教内に目を向けると2年前の1986年に教祖百年祭が盛大に行われ、注連縄や玉串が無くなったころでもある。刻限によって世界助けをする時だったはずが、この頃、とんでもない事件も起こっていた時だ。三島神社移転である。これに関しては若い人は知らないであろうから、ご参考までに、ネット上にも資料が出ているので、歴史的なことを知る上でも読んでみていただきたい。
http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/book/misima/kagami.pdf

三島神社移転と鏡池の埋め立ては、やはりよくなかったのだろうか。

 これに関しては様々な話が飛び交っているが、関係者の出直しなど、神の怒りに触れたのだろうかと思わせるようなことも多いように感じる。私はそれより、金や権力にものをいわせ、強硬にやってしまったことがよくなかったのではないかと思っている。
 数年前、三島神社移転に関する資料をいろいろ集めて読んでもいたが、教内でも反対する人も多かったようだし、三島の人たちと対立することもわかっていたであろうに、そこまでして無理に移転する真意は何だったのだろうとも思った。私には無理に強行しなくても、旬が来て神が働けば、自然に理想的な形になってくるものだとも思えるのだが。

 みきが八十三歳の時、息子の秀司が亡くなり、側近者も、一時政府の認可を得ようとする計画を放棄したが、翌年、みきが奈良警察署に召喚されてから、毎年一回、必ず奈良監獄に収容されるという苦労を、側近者は見かねて、みきの意思に反して、ひそかに「神道天理教」の認可を求める運動を盛んに行った。
 そのことを、みきは親神の予定の世界助けの計画を妨げるものと、歎かれたが、親神の仰せに従って、寿命を二十五年縮めて、うつし身をかくし、死して存命の親として広く道をひらくことにした。その時、親神とみきとの計画は、真之亮を初代の真柱とし、それに、飯降伊蔵を本席として助けさせて、みきの三十年祭には「神の代理」を送って、真柱に協力させる。それに依って、親神の刻限の世界助けが実行できるという予定であった。

『神の計画』芹沢光治良 81―82頁

神の計画と人間の思惑は違うことだらけだったのか

 「息子の秀司が亡くなり、」ということは明治14年のことかと思われる。金剛山地福寺配下の転輪王講社の時代だと思うが、これから教祖が現身をかくし、本席の時代になる前の頃だと思うが、櫟本の梶本家から真之亮を迎えて真柱として育て、世界助けに向けて準備をしていたのかと思う。
 「まつえさん」は「たまえさん」を産むに流産しているようだが、神は真之亮を初代真柱として迎えるためだったのかと思えてくる。秀司さんとまつえさんの間に男の子が生まれたら、相続人ができてしまうし、真之亮が真柱にならなかった可能性もあったのかとも思える。
 三十年祭の「神の代理」というのは、播州の親様井出クニのことだ。井出クニのことは以前も記事で取り上げたし、今の時代、ネット上にもいろいろ出ている。神の計画では天啓者として、真柱と伴に教祖殿で世界助けをさせようとしていたのだろうか。
 神の計画だから、人間にはわからないものかとも思うが、世界中が戦争で混乱していた時でもある。まるで、今のロシアとウクライナの紛争に世界中が巻き込まれている状況と同じような気もする。歴史は繰り返されるものなのかとも感じる。

 みきの死後、真柱、伊蔵によって、しばらくは親神の道も治ったが、みきの意思に反して、天理教という宗教組織をつくったことが、親神の計画を狂わせることになった。重大な任務を持った真柱は、若くて修業が足りないために、天理教という組織にとらわれて、その長である任務を、真柱という重大な任務ととりちがえた。それ故、本席を通じて行われた神の啓示を、ややもすれば、無視して神殿造りを、信仰家として励んだ。従って、集る信者たちも、真柱を神の代理者と考えて、神殿普請が信仰だと思いちがえてしまった。ただ真に道を求める僅かな者が、本席を通じて、神のこころを識って、真の信仰を体得していたが、その人数は少なかった。
 信者の間には、三十年祭には神が現れるということを、信じている者が多かった。三十年祭を迎える前に、本席が亡くなったことも、神の現れる前ぶれとして、悲しむ者も少なかった。そして、本部の神殿が完成した時には、これで三十年祭が迎えられると、信者達の精神は高揚した ー それも、これで神が現れるからと、よろこんだからだった。
 しかし、三十年祭に神は現れなかった。信者は神の現れたことを、知らなかったのだ。

『神の計画』芹沢光治良 82頁

神殿普請こそが信仰のように勘違いしていたのか

 神の啓示より大事なのは、組織の理論だったのかとも思えるが、人間は目に見える立派なものに心を奪われるものであり、それを実現するために莫大な資金を集めることに夢中になってしまったのかとも思える。私は信仰というものは一体、何なのかと思う。立派な神殿を普請することなのだろうか。建築物は新しいうちはいいが、時間ととともに老朽化して行くものであり、神殿の場合、規模が大きくなれば、更に大きく建て直しをし続けなければならないものだと思う。従って無理して、借金までして建てるものではないとも思う。皆が心を合わせ、旬が来れば、それに応じて、更に大きくなっていくものではないのかとも思う。
 おやさとやかたもできたばかりの時は素晴らしい建物だったのかもしれないが、今では老朽化してしまっている部分も多い。八町四方の欠けている部分を新しく作る前に、最初に建てたところが老朽化して、修繕していかなければならないのではないだろうか。これがいわゆる「きりなしふしん」なのだろうか?それを負担する信者やお供えを集める会長も、もう勘弁してほしいという気持ちになるのではないだろうか。

 そう、天の将軍は言ってから、息をのむようにして、つづけたー
 親神と存命のみきは、そのために用意して、みきの代わりに、井出国子をしこんで、新築した教祖殿に坐らせた。そこで、みきに代って、人々に神の話をとりつがせることにしたのに、本部の人々は狂人だといって、井出国子を引きずり出したが、井出国子に怪我をさせたばかりでなく、教祖殿から外へ通ずる新しい廊下に、引きずった跡が、はっきり出来て、消そうとしても不可能で、廊下の板をかえなければならなかった。
 親神と存命のみきは、みきの代理をする者を選ぶのに苦心したが、播州三木町の鍛冶屋の四十歳妻井出国子を選んだ。この婦人ならば、両親が同じ鍛冶屋の真之亮が、すぐ気がつくだろうと考えたからだが、約十年の間、存命のみきは、彼女につき添って、実相の世界の修行をさせた。その難行苦行によく耐えて、立派な器になったので、みきの代理として神のこころを伝えられるばかりでなく、真柱を親神の希うような真柱にしこんで、天理教という宗教ではなく、世界助けのもとの地場にすることを、期待したー
 それが、天理教本部の処置で、不可能になった。それで、親神はその計画を変えることにし、直に真之亮を迎えとった(出直させた)。そして、真之亮の魂を、現象の世界に生まれかわらせて、刻限に間にあうように、神の社として育てることにしたのだー

『神の計画』芹沢光治良 82―83頁

完全に消されてしまった歴史的な事実なのだろうか。

 やはり信仰の根本にかかわる問題のようだ。芹沢文学を読んでいると思うのだが、教祖みきは最初から神ではなかったであろうし、天保9年の神懸かりから、親神が与える試練の道をずっと通ってきたように思う。人類の中で最もふさわしいと神に選ばれ、神の言葉を伝える者として苦労されてきたのかとも思える。教組三十年祭の時に井出クニは教祖殿に現れたわけだが、神の計画はまったく潰された形になっている。万が一、この時に井出クニが受け入れられていたら、どう変わってきたのだろうかとも思えるのだが、歴史に“もし”はあり得ない。冷徹に今の現実があるのみだ。

 私が疑問に思ったのは、なぜ井出クニは教祖三十年祭に教祖殿に現れた時に、引きずり出されたのだろうか。クニほどの不思議な霊力を持っていれば、引きずり出そうとした本部員(鴻田、春野)に「振動」を与えて跳ね飛ばすこともできたはずである。不思議な力を見せて、自らの立場を証明して、納得させていれば、引きずり出されることもなかったかとも思われ、また歴史も変わっていたようにも思う。
 仮に本部側の人間がその霊力を認めていたとしても、組織の上から認めるわけにはいかなかったのだろうか。その三十年祭の時というのは1916年(大正5年)であるから、正善二代真柱は12歳の子供で、山澤摂行時代であるから、実質的には正善二代真柱の母親であるご母堂さん松村吉太郎が全権を握って動かしていた時でもある。従って次期真柱に全権を集中させる体制を作り上げるために、何としてでも排除しなければならなかったのかとも思う。であるから、芹沢光治良が二代真柱と会った時に「井出クニ」の話はしないことを約束させられたことにも納得がいく。
 ただ神の怒りに触れたとしか思えないように、その教祖三十年祭2年後の大正7年「茨木事件」が起こっている。今度は井出クニのように外部ではなく、現役の本部員に神懸ったのであるから、問題は更に大きかったことだろう。結局、この事件も封印されてしまったわけであるが、神の計画は完全に頓挫してしまったのかと思われる。
 第一次世界大戦が終結した頃であるが、世界的なスペイン風邪も流行している。真之亮は元々「前川の父の魂を宿しこんだ」と言われていたように記憶しているが、大正3年の大晦日に首の悪性腫瘍で49歳の若さで出直したはずだ。
『天理の霊能者』豊嶋泰國「茨木基敬」の項に真之亮(初代真柱)の出直しに関する詳細が書いてあったが、茨木基敬の天啓を信じずに、封印してしまったことが出直しの原因だったようでもある。神懸かりの状態で茨木基敬は「気の毒やけれど、真柱はこの年の暮れは越せん」と予言していたようだ。真之亮の魂は「刻限に間にあうように、神の社として育てることにした」とあるのが、誰に生まれ変わったというのであろうか?ご存じの方がいれば、教えていただきたい。

神の真意を研究していくべきだ

 こういった表には出てこないというか、よほど調べ回らないと出てこないような歴史を掘り返し、本当に天理教はどうあるべきなのか考えていくことが大事なのではないだろうかと思う。しかし、そういった声は抹殺し、都合よく教団運営をしていくことが大事なのだろうか。上記にあげた話は教内ではタブーのようである。しかし、タブーとなると、なぜタブーなのかも含めて、人間は更に知りたいとも思う動物であるとも思う。

 しかし、これだけいろいろな事例が起こっていたことを考えてみる時、「神の計画」では人選をする時に、天理教内部の人間だけを選んでいるわけではないようだ。言い換えれば、世襲制のようなことは、やはりおかしいということなのかもしれない。
 天理教は本席までの啓示で全て完結し、それだけをもとに運営され、都合の悪いものは全て表に出さず、「異端」で片付ければいいのかもしれない。神の次なる計画はどのようになっているのか、知りたいものだ。私は教祖百四十年祭を行うのであれば、それを機に大きく「改革・復元」をしなければ衰退は止められないのではないかとも思うのだが…。


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