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夏のこどもおぢばがえりに思う

 コロナの影響もあったが、また夏の「こどもおぢばがえり」が開催されている。昨日、天理教教会本部神殿前の旧黒門があったところを朝と夕方にクルマで通った。朝はそれなりに子供の姿も見えたし、陸橋近くの駐車場も昇降する引率の人たちらしき人の姿も見かけた。

 しかし、夕方6時すぎに通った時には人影も少なく、以前ならパレードで渋滞になっていたのに、拍子抜けするくらい寂しい感じであった。おぢばがえり最初の日曜日でこんな様子では、かなり少ないのではないかと感じた。    
 
振り返ってみれば約30年くらい、ずっと「こどもおぢばがえり」のひのきしんをしてきた。人であふれ、行事もたくさん行われ、天理市中がにぎやかであったのに、何かさびれた地方都市というイメージがして一抹の寂しさも感じた。

 教外の友人でも、SNSで知り合った新しい友人でも「子供の時に天理へ行ったことがある」という人がけっこういた。相手が「夏休みの時で…」と話すと、「それって、夏のこどもおぢばがえりじゃないですか?」と言うと、たいていの場合、「友達に誘われて」とか、「近くの教会で声をかけられて」と答えるケースもあった。それぞれ楽しい思い出になっているようで、実は私はそのスタッフもしていたんだと話すと、「そうだったんですか。じゃあ、どこかで会っていたかもしれませんね。」となることが多かった。

 「この家へやってくる者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」

天理教教祖伝

 この教えを本当に信じて、帰ってくるこどもたちに喜んでもらえるよう勤めてきたつもりであるし、他の若いスタッフにもそのように指導してきた。それは間違っていなかったとも思うし、帰参する人も迎え入れる方も双方が喜び勇めた姿ではないのかとも思える。

 冒頭に寂しくなったと書いたが、少子高齢化の波で、子供自体の数が減っていることもあるのだろう。しかし、それだけではないようにも思う。天理教の教えは素晴らしいし、天理教の人は皆、親切だと言われることも多い。しかし、別席を運んでようぼくになろうという人は減っているように思う。別席制度についても教勢の衰えについても過去記事でさんざん書いてきたから、繰り返すことはしないが、やはり親神の思いとは違う何かがあるような気がしてならない。

 話は変わるが、日本在住のイスラム教の人と話す機会があ
る。彼らと話していると、日本人の宗教観との違いを感じる。私の不躾な質問にもよく答えてくれる。

「一日に何回くらいお祈りをするの?」
「5回ですが、昼間、仕事でできないから、帰ってから夜にします。」
「そうなんだ。何かイスラムというと、お酒がダメとか豚肉がだめとか、厳しいというイメージがあるけど、本当にお酒は飲まないの?」
「ダメダメ、でも、飲んでる人もいっぱいいますよ。」
「なんだ、じゃあ、厳しいというけど、守らない人もけっこういるんだ。

 この他にもいろいろな質問もしたが、話しながら感じたことがある。それは「宗教」というより、「常識」とか「モラル」に近い感覚なのではないかということだ。国の人口の8割以上がイスラム教であれば、学校での教育にも、家の生活の中でもイスラム教的なことは入り込んでいるわけで、それが習慣化し、普通という感覚であれば、誰も疑問も感じないであろう。だから守らない奴も出てきたり、戒律を破ることがあっても、お祈りの時にアラーの神に謝るという。他にも離れた家族のこと、心配なことなどいろいろ祈るという。

 振り返って日本はどうだろう?文化庁の調査によれば、神道が48.5%、仏教が46.3%、キリスト教が1%、その他という感じで、神道、仏教がほとんどを占めていると言える。しかし、それは信仰しているという人の数字であって、無宗教という人もかなりな数、存在するであろうし、そもそも日本は葬式などの儀式的なことしか宗教は絡んでこないようにも思える。まして宗教を意識しながら、生活の中で教えを守ろうという人は少ないのではないだろうか。

 イスラムの彼らと話していて思うのは、イスラム教が特別なものではなく、生まれた時から普通に親から教えられ、アラーの神にお祈りをするんだとやり方を習い、これは食べてもいい、これはだめだとか教えられてきているに過ぎない。それは日本人も同じで、神社へ行けばお賽銭を投げて、手を合わせる。食べるときは茶碗を持って箸で食べるというように当たり前のこととして身に付けているに過ぎない。お隣の韓国では茶碗は置いてスプーンでご飯を食べ、箸でおかずをつまむのが普通だ。欧米では音を立てて食べない。そういったことと同じく、宗教自体がしつけであり、習慣であるのかとも思える。

 話がかなり逸れてしまったが、「夏のこどもおぢばがえり」は一つのイベントに過ぎないのかもしれない。だから今まで大勢、来ていたのかとも思うが、今の日本で楽しいイベントなど、どこにでもあり、お金を払えば楽しめるところもいっぱいあるのである。その路線で行っていることが衰退というか、寂しさを感じるほど少なくなっている原因ではないのかとも思える。
 しかし、長くスタッフを勤めたこともある身としては冒頭に書いた「喜ばさずには一人もかえされん」の精神で皆が一生懸命勤めていたように思うし、それは今も続いているように思う。

 世界中の国の8割くらいが同じ信仰であれば争いも起きないのかもしれないが、宗教が元で戦争も起きるわけであるから、アラーの神もイエスキリストも全ての神を超越した創造神である神が統一してくれれば、今よりは平和で陽気な暮らしができるはずだ。

 所詮、宗教というのは人集め、金集めに過ぎないと思われているようにも感じる。仮に国の宗教が「天理教」になったとして、本当に陽気づくめの世界が訪れるだろうか?訪れてくれなければ嘘になる。
 
イスラムの人たちが一日に5回お祈りをするように、朝勤めから始まり、夕勤めで終わるという天理教の信仰生活は、先に話したイスラムの人たちと何ら変わることはない。一回5分くらいのお祈り5回か、15分くらいのおつとめが朝夕2回の違いがあるに過ぎないように思う。

 まだまだ研究し続けないと先は見えないのかもしれないと思うこの頃である。

 久々に記事を書いて、このような駄文でフォロワーの方々には申し訳なく思っています。しかし、日々を過ごしながら、感じていることをそのまま書いたつもりです。お読みくださり、感謝しています。

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