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談じ合えない「集会」に意味はあるのだろうか

 天理教では「定時集会」という会議体がある。各都道府県から一名の集会員が出席しているようだ。天理教の公式HPのお道のニュースで『ひながたをたどり 活発な談じ合いを「集会」80周年』2021年12月3日というのがあったが、よくも80年も続いたものだと思う。まずは読んでいただきたい。

昭和16年の「天理教教規」改定により発足した「集会」。現在、表統領から任命された集会員によって、教規の変更、教庁の予算・決算、教会教費などの議案が審議・採決されている。こうしたなか、11月27日、集会が発足80周年を迎えたことを記念して陽気ホールで記念式典が執り行われた。
席上、宮森与一郎・内統領が真柱様のメッセージを代読した。
その中で、「集会の本義は談じ合いにある」と明示したうえで、「集会は、教内の一手一つの活動を目指して、集会員が率直な意見を交換し、満場一致の結論に導けるよう、どこまでも心を寄せ合い、談じ合いを重ねていく場を指す」と述べられた。

「お道のニュース」2021年12月3日

 内統領が「集会の本義は談じ合いにある」と真柱のメッセージを述べているが、本当に「談じ合い」が行われているのだろうか。「集会員が率直な意見を交換し」とあるが、そもそも率直な意見など出てくるのだろうか?聞くところによれば、表統領により、意見が言えるような集会ではなくなったと聞くのだが。
 真柱と表統領は実の兄弟だが仲が悪いのだろうか?真柱と表統領では主張していることと実際が真逆のような気がするのだが。根本的に話し合えないような集まりであるのなら「集会員」になった方々は気の毒としか言いようがない。近場の教会長さんならまだしも、日本各地の遠方から交通費も節約しながら、何とかおぢばがえりし、率直な意見も言えず、無駄な時間を過ごさなければならないのであるから。続きを読んでいただきたい。

続いて、満場一致の治まりを願うには、互いの努力や協力は言うまでもなく、一人ひとりの考え方の根元に同じものがあるということが大切な点であると指摘。「考えの根元には揺るぎない親神様の思召、教祖の教えが必ずあるはずである」と示された。
さらに「時代が変われば世の中の様子も考え方も当然変化していく。だからこそ、ひながたをより身近に感じ、わが事として据える、それ相応の努力や工夫が必要である」と話された。
最後に「集会の場での活発な談じ合いが、ひながたをたどる人々の勇みの台となり、たすけ一条の道の広がりにつながっていくよう、皆さん方が集会員の勤めをしっかり果たしてくれることを心から願う」と締めくくられた。

「お道のニュース」2021年12月3日

 読んでみてどのような感想を持つだろうか?相変わらず抽象的なことばかりで、何も心に響いてこないばかりか、また同じことの繰り返しかという印象を持ってしまう。「時代が変われば世の中の様子も考え方も当然変化していく。だからこそ、ひながたをより身近に感じ、わが事として据える、それ相応の努力や工夫が必要である」とあるが、時代の変化に対応していかなければならないというのであれば、大きく『改革』していかなければならないのではないか?口ばかりで何も変えようとしていないように感じているのは私だけだろうか?本当に「談じ合い」のある集まりなのだろうか?

時代の変化に対応して変化しなければならない部分
    → 教規や組織の制度など
      (全く変えようとしない。変えても都合のいい部分だけ。)

時代の変化には関係なく、変えてはならない部分
    → 教祖が伝えた逸話や教理など
       (都合の悪い部分は隠蔽、また都合よく改竄する。)

 本来、変えるべきところはなかなか変えようとはせず、旧態依然としたことばかりで、本来変えてはいけない部分は大正時代から何人もの人(本部員だけでなく、離脱した人も含む)が指摘しているように、隠したり都合よく解釈したりが繰り返されている。真逆としか言いようがない。

続いて、中田善亮・表統領があいさつ。本部も教会もようぼくも、教祖のひながたの道を歩む兄弟姉妹として、一手一つにたすけ一条の道を邁進できるよう、しっかりとその屋台骨を組み支えていきたいと述べたうえで、「これからも集会の皆さんのお力を頂き、間違いのない道筋を立てさせていただきたい」と語った。

「お道のニュース」2021年12月3日

 これもあきれた挨拶のような印象を持ってしまう。「これからも集会の皆さんのお力を頂き、間違いのない道筋を立てさせていただきたい」というが、皆さんのお力を頂くと言いながら、「集会」自体を談じ合いの場とできないように仕向けている張本人が述べる挨拶なのだろうか。天理教の「集会」というのは議論する場ではなく、「会計報告会」の場なのだろうか。あるいは問題意識を持たない本部にとって安全な「集会員」ばかりを人選し、いかにも形だけ「ちゃんとやっていますよ」アピールをするためだけのものなのだろうか。

 「談じ合い」は何も顔を突き合わせながらしなくても、ネットを利用すれば「本音」「忖度なし」でできるものだと思っている。無駄な交通費と時間をかけるより、ずっと未来志向だとも思うのだが。
「集会」を行うのであれば、全員、匿名で質問や議題を出して、ネット上の掲示板でやってみてはどうかとも思う。本物の『談じ合い』になること請け合いだと思うが。江戸時代の参勤交代じゃあるまいし、終息しないコロナ禍の中で遠方から集まる必要がどこにあるのだろう。現役「集会員さん」の本音を匿名で聞いてみたいものだ。よろしければコメント欄に書き込んでいただきたい。

 結局、「集会」というものも本質的なことにはふれず、長い歴史の中で「形骸化」したものに過ぎないのだろうか。強い問題意識を持ち、変えていかなければ先はないと思うのであれば、まずはつまらない遠慮や忖度を捨て、問題部分をズバリ「本音」で言える環境を整えることから始めなければならないのではないか。
 まあ、どう考えても100%無理な話である。わかっていても自分自身の首を絞めるものはいないからである。しかし、主催者も参加者も匿名で「談じ合える」場があってもいいのではないだろうか。なぜなら「天理教」というものが、もう崖っぷちギリギリのところにきているようにも感じるからである。ああだこうだ言ってる場合ではないとも思う。

 昨今のご時世を見ていると神がせきこんでいるように思えてならない。コロナが終息しかかったと思えば、第七波で毎日のように最大感染者数更新、夏の行事もストップ、詰所は感染が増え、閉鎖しているところもあるという。「まだわからんのか」と神がこれでもかと攻めたてているようにも感じる。苦しみ喘ぐのは上層部ではなく、中間から下である。しかし、このまま何も変わらなければ、ゆでガエルのようになるのは見えている。

 本音の「談じ合い」が実現できるのがインターネットだとも思うが、それを個人レベルでやっているのがツイッターなのかとも思う。しかし短くつぶやくツイッターでは「批判合戦」にしかならないのではとも思う。

 以前、「ジロウ閑話休憩…1」「車中八策」のことを書いたが、自分一人で考えていると一人よがりなものになるとも感じている。一度、アップロードし、意見を求め、志ある方々と「談じ合い」をしたいとも思っている。それを元に「車中八策」を完成させるのも意義あることではないかとも思っている。

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