前回では茨木事件の概要などをまとめてみたが、今回はそこから考えられることをまとめていきたい。天理教では神の言葉を伝えるものは教祖ご在世時から、教祖一人だったわけではないようである。天理教本部側でもそれは認められていることなのかと思う。若い神として教祖みきのもとに仕えた末女小寒さんは、元治元年の頃から神懸っていたという。(「翁より聞きし咄」『ひとことはなし』)そうであれば、天啓者が二人、いや或いは三人いてもいい話である。
元々、小寒さんは跡を継いで、赤衣を着て、神の言葉を取り次ぐ役目を引き受けるはずだったのに、教祖の思いとは裏腹に先に出直したおはるさんの代わりに櫟本へ行ってしまい、不幸な結果になってしまった。そこから神の計画も変わり、飯降伊蔵が本席になったはずだ。このへんの認識は天理教人であれば、共通だと思う。
私は天啓者というのは本物であるなら、何人いてもいいのではないかとも思っている。(本物であればの話だが…)数名いれば伺いを立てた時にはっきりしない場合、その天啓者だけの合議で神の思いをはっきりと人間に明示することも可能ではないだろうかとも思う。
茨木事件に関して本部側ではどう考えていたのだろうかとも思えてくるが、当時の実質的なトップであった松村吉太郎の自伝にも書かれていたので、ちょっと紹介したい。
読んでみて、読者の方はどのような感想を持つだろうか。教団の天下を取るとばかりに神懸ったというような態度だったと思うであろうか。俺がトップだと教団を乗っ取ってやろうというような態度だったのだろうか。私にはそう思えないし、教団の中でも本部員・大教会長として信者を思い、大正普請に反対し、冷遇されていても本心を貫こうとした人物だと思う。それだけに神が最後の手段とばかりに、他ならぬ本部員である茨木基敬に天下ったと考えるのが、普通ではないだろうか。
茨木事件後、出直した1.2.3.4.5の本部員も真偽のほどは、はっきりと認識していたとも思う。この5番目の井筒五三郎だが、松村吉太郎の実弟で芦津の井筒家へ養子に行っている。その下の弟の松村隆一郎も兄の吉太郎に代わって高安大教会長を勤めたが大正6年9月に出直している。
茨木が神懸ったのは明治44年秋からであり、大正に入って6年には既に松村吉太郎も茨木の天啓のことは知っていたはずだ。普通に考えれば、弟が二人も出直し、神の「かやし」だったのかと思わなかったのだろうか。
大正6年の隆一郎の出直しは警告で、茨木父子を免職後の大正8年の五三郎の出直しは神の「かやし」だったように思えてならない。私には神の怒りに触れてしまったようにしか思えない。
茨木基敬父子を本部から放逐後、山中彦七を後任に据えたが、教内でも大きな北大教会の建物をどうするかについて問題があったようだ。『道の八十年』の続きを読んでいただきたい。
最期の「腐木は一日も早く斬らねばならぬ。」が印象的である。『道の八十年』は昭和に入ってから回顧談として書いたのであろうから、ずっと異説・異端に関しては「腐った木」と考え、早く斬ってしまうのが一番と考えていたのかと思う。
この話を読んだ時に思い出したのが、以前の記事「異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者の戯言」でも紹介した『お道の弁証』―護教論への試み-だ。全く同じことを言っているように感じる。いや、時系列的に考えれば、松村吉太郎の発言がもとになっているとも考えられる。
そうまでして守らなければならないのはいったい「何」なのだろう?
中山家?なのだろうか。縁戚関係で固められた本部員集団なのだろうか…。一派独立を果たし、教会制度を確立した教団なのだろうか…。
私には理解できない…。
(その3につづく…)