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私の「茨木基敬」考…その2

 前回では茨木事件の概要などをまとめてみたが、今回はそこから考えられることをまとめていきたい。天理教では神の言葉を伝えるものは教祖ご在世時から、教祖一人だったわけではないようである。天理教本部側でもそれは認められていることなのかと思う。若い神として教祖みきのもとに仕えた末女小寒さんは、元治元年の頃から神懸っていたという。(「翁より聞きし咄」『ひとことはなし』)そうであれば、天啓者が二人、いや或いは三人いてもいい話である。
 元々、小寒さんは跡を継いで、赤衣を着て、神の言葉を取り次ぐ役目を引き受けるはずだったのに、教祖の思いとは裏腹に先に出直したおはるさんの代わりに櫟本へ行ってしまい、不幸な結果になってしまった。そこから神の計画も変わり、飯降伊蔵が本席になったはずだ。このへんの認識は天理教人であれば、共通だと思う。

 私は天啓者というのは本物であるなら、何人いてもいいのではないかとも思っている。(本物であればの話だが…)数名いれば伺いを立てた時にはっきりしない場合、その天啓者だけの合議で神の思いをはっきりと人間に明示することも可能ではないだろうかとも思う。

 茨木事件に関して本部側ではどう考えていたのだろうかとも思えてくるが、当時の実質的なトップであった松村吉太郎の自伝にも書かれていたので、ちょっと紹介したい。

 茨木さんに天啓が下る……とはすでに大正六年一月にきいた。そのとき本部では茨木さんに北大教会長休職の処置をとったが、それだけでは治まらなかった。その後も役員信徒を通じて、天啓降下の説を流布していた。
 或る日、息子の基忠さんを大阪教務支庁に呼んだ。
「お父さんはどうしている…」
「御本部のおさしづに従いまして、その後はひきつづき謹慎しております……」
「お父さんは謹慎しているだろうが、あんた達はお父さんをどう思うているのか……」
 私は彼の心底を押して偽りのない回答を求めた。すると、
「正月よりこのかた、父に対する天啓は依然として継続しております。日と共に、私も信徒も所属教会長も、父に対する信仰を深めております」といった。
 その翌日、私は天啓の実否をたしかめるために、北詰所内の茨木さんの宅を訪ねた。客間に案内されて待っていると、茨木さんは両腕を麻縄でしばって次の間に端座した。意外な行動におどろいていると、
「私は天理教の罪人でありますから、正当では、先生に面会できません。どうか、このままでお許しねがいます」
といった。
「休職というのは職務の執行を止められたまでであって、あなたはやはり従前どおり、本部役員であるし天理教教師です。そんなことをする必要はない。ここへ同席してください」
「いや、私は自分自身を罪人と思っています」
「私は罪人をただしに来たのではない……」
 何度か押問答しているうちに、茨木さんは私の言葉を受け入れて、縄をほどいて同席した。
 私はいろいろと心情を聞き、その上で言葉をつくして改心をすすめてみたが頑として応じない。
「神意を無視すれば我が身の滅亡を招くのみで、この窮地にいたっては自殺より外にないと思います。しかし、私は自殺できません。そうすれば、今後どのような困難な迫害に会っても、私の信ずるところを貫くより外に執るべき道がないと覚悟しています」
と告白した。すると、妻のくに子もそこへ出て来て、
「神様にそむくことはできません。これからの苦労は覚悟しています、神意をすてて、私どもの生はありません……」
と強い意志を断言した。
 茨木さん夫婦の態度も心構えも、すでに明かであった。そのゆく道は定まっていた。さりながら、私はなおこれを、このままで葬りかねた。茨木さんの功績から考えても、また友情の上から思うても、なんとかして、この危地から救い上げたかった。私はもう一度、基忠さんと話し合ってみた。すると、
「どんなに巧妙に偽造されていても、大蔵省印がない以上、紙幣として通用しないことは承知しています。もはや今日に至っては、どうも致し方ありません」
と、冷淡きわまる答えであった。私の真情は、少しも通じていなかった。
「父が窮地に陥ろうとしているのに、子としてこれを見捨てるのは、道義上から云っても不都合ではないか……」
「私にはどうすればよいかわかりません。子としての道を教示して下さい」
「この際、円満な解決をつけるには、お父さんに辞職させるのが最も適当な方法でしょう。私はそれ一つだと思う」
「今日まで父の天啓を信じ、役員も部下教会長も信じてきたのですから、今日におよんで私から辞職を勧告できません。実は父が休職になった際でした。免職ならお祝いでもするのに、休職ではせいがない……と申しまして、父はじめ一同も気抜けしたようなこともありました。ただ今では、教会長を甲乙に別け、甲部は父の天啓組です。必要であれば、その名簿も提出いたします」
といった。
 ここに至っては、もう談じ合いの時期ではなかった。私としては事前にとるべき処置は十分にとった。理において情において、つくすべきはつくした。この上は「断」あるのみであった。
 本部員会議を経て、茨木父子を免職とし、山中(彦七)さんが北大教会長と定まった。

『道の八十年』松村吉太郎 p302~304

 読んでみて、読者の方はどのような感想を持つだろうか。教団の天下を取るとばかりに神懸ったというような態度だったと思うであろうか。俺がトップだと教団を乗っ取ってやろうというような態度だったのだろうか。私にはそう思えないし、教団の中でも本部員・大教会長として信者を思い、大正普請に反対し、冷遇されていても本心を貫こうとした人物だと思う。それだけに神が最後の手段とばかりに、他ならぬ本部員である茨木基敬に天下ったと考えるのが、普通ではないだろうか。

 茨木事件後、出直した1.2.3.4.5の本部員も真偽のほどは、はっきりと認識していたとも思う。この5番目の井筒五三郎だが、松村吉太郎の実弟で芦津の井筒家へ養子に行っている。その下の弟の松村隆一郎も兄の吉太郎に代わって高安大教会長を勤めたが大正6年9月に出直している。
 茨木が神懸ったのは明治44年秋からであり、大正に入って6年には既に松村吉太郎も茨木の天啓のことは知っていたはずだ。普通に考えれば、弟が二人も出直し、神の「かやし」だったのかと思わなかったのだろうか。
 大正6年の隆一郎の出直しは警告で、茨木父子を免職後の大正8年の五三郎の出直しは神の「かやし」だったように思えてならない。私には神の怒りに触れてしまったようにしか思えない。

 茨木基敬父子を本部から放逐後、山中彦七を後任に据えたが、教内でも大きな北大教会の建物をどうするかについて問題があったようだ。『道の八十年』の続きを読んでいただきたい。

 茨木さんは、おそらく建物をわたすまいと考えていた。その問題について情義をつくしていては時日が伸びるばかりである。それでは整理の意味をなさない。そう思って、数日前から弁護士を通じて差押えの手続きを用意しておいた私は、翌日、大阪裁判所へ差押への処置を取ってしまった。
全く疾風迅雷と云ってよかった。
 事を潰すのは素よりお道の精神において好まない。さりながら、事、異端異説にかかる問題は、断行あるのみであろう。腐木は一日も早く斬らねばならぬ。

『道の八十年』松村吉太郎 p308

 最期の「腐木は一日も早く斬らねばならぬ。」が印象的である。『道の八十年』は昭和に入ってから回顧談として書いたのであろうから、ずっと異説・異端に関しては「腐った木」と考え、早く斬ってしまうのが一番と考えていたのかと思う。
 この話を読んだ時に思い出したのが、以前の記事「異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者の戯言」でも紹介した『お道の弁証』―護教論への試み-だ。全く同じことを言っているように感じる。いや、時系列的に考えれば、松村吉太郎の発言がもとになっているとも考えられる。
 
 そうまでして守らなければならないのはいったい「何」なのだろう?
中山家?なのだろうか。縁戚関係で固められた本部員集団なのだろうか…。一派独立を果たし、教会制度を確立した教団なのだろうか…。

私には理解できない…。
 
(その3につづく…)


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